聖書の中には「奉仕の僕」という立場は本当は存在しない?
エホバの証人の組織の中には、長老を支える立場として「奉仕の僕」という立場があります。長老たちが牧する業に専念できるように、会衆の事務的な仕事は特に「奉仕の僕」たちが担当します。
この役割分担の根拠になっている聖句は以下です。イエスの死後、自分たちが教える業に専念するために十二使徒たちは7人の男子を任命して食物の分配に当たらせています。
兄弟たち、あなた方の中から、霊と知恵に満ちた確かな男子七人を自分たちで捜し出しなさい。わたしたちがその人たちを任命してこの必要な仕事に当たらせるためです。しかしわたしたちのほうは、祈りとみ言葉の奉仕とに専念することにします。
使徒 6:3,4
「長老」の資格をとらえるには必ず「奉仕の僕」という資格をとらえている必要があるので、「奉仕の僕」という資格は若い兄弟たちの目標として励まされたり、霊性の目安として言及されたりします。
さらに、「奉仕の僕」という資格をとらえるためには満たすべき条件があり、その条件としてテモテ第一3:8−10、12がよく引用されます。読者がクリスチャン男子なら馴染み深い聖句でしょう。
同様に、奉仕の僕たちもまじめで、二枚舌を使ったりせず、大酒にふけらず、不正な利得に貪欲でなく、・・奉仕の僕たちは一人の妻の夫であり、子供と自分の家の者たちを立派に治めているべきです。
テモテ第一 3:8~10,12
上記に挙げた2つの箇所が「奉仕の僕」という役割と、その任命に関わる聖書的な根拠となっています。
ギリシャ語では一貫して「ディアコノス=奉仕者」
実は、元々のギリシャ語聖書には役職としての「奉仕の僕」という概念はありませんでした。
エホバの証人の組織が突然、テモテ第一3章の「ディアコノウス」という表現を「奉仕の僕」という表現に翻訳し、役職としての「奉仕の僕」の概念を導入しています。
詳しく説明すると、以下のようになります。
ギリシャ語の原文では、3:8のこの部分は元々「Διακόνους(ディアコノウス)」と表記されています。3:12の方は「διάκονοι(ディアコノイ)」です。英語に翻訳する時はどちらも一貫して「Servants(奉仕者たち)」と翻訳されます。
実は「ディアコノス」という単語が出てくるのは聖書のこの部分だけではありません。イエス・キリストやパウロの発言を含め、ギリシャ語聖書のあらゆるところで「ディアコノス」という表現が使われています。
幾つか例を挙げてみましょう。
かえって、だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者(διάκονος)でなければならず、また、だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者はあなた方の奴隷でなければなりません。
マタイ 20:26
わたしは言いますが、キリストはまさに、神の真実さのために、割礼を受けた者たちの奉仕者(διάκονον)となり、こうして、神が彼らの父祖になさった約束の確かさを証拠だて、・・
ローマ 15:8
わたしはあなた方に、ケンクレアにある会衆の奉仕者(διάκονον)である、私たちの姉妹フォイベを推薦します。
ローマ 16:1
その良いたよりは天下の創造物の中で宣べ伝えられたのです。私パウロは、この良いたよりの奉仕者(διάκονος)となりました。
コロサイ 1:23
いかがでしょうか。「ディアコノス / ディアコノン」という単語はイエス・キリストにも、パウロにも、ひいてはフォイベという女性に対しても適応されているのです。
まとめると次のようになります。
- διάκονος(ディアコノス)=奉仕者【マタイ20:26】
- διάκονον(ディアコノン)=奉仕者【ローマ15:8】
- διάκονον(ディアコノン)=奉仕者【ローマ16:1】
- διάκονος(ディアコノス)=奉仕者【コロサイ1:23】
- διακόνους(ディアコノウス)=奉仕の僕【テモテ一3:8】
- διάκονοι(ディアコノイ)=奉仕の僕【テモテ一3:12】
テモテへの手紙の例の部分だけが「奉仕者」ではなく「奉仕の僕」、英語では「Ministerial servant」という独特な呼称に翻訳されていることは実に奇妙なことです。
本来であれば「奉仕の僕」という翻訳は誤りで、他の聖句と同じように単に「奉仕者」と翻訳するべきだからです。
実際に、新世界訳聖書(1985年版)の翻訳委員会も『The Kingdom Interlinear Translation of the GREEK SCRIPTURES』にて「ディアコノス」という言葉を「Ministerial servant」ではなく、一貫して「servant / servants(奉仕者)」と訳しています。
マタイ書の「ディアコノス」も、テモテへの手紙の「ディアコノウス」や「ディアコノイ」も、ローマ書の「ディアコノン」も一貫して「servant / servants(奉仕者)」という翻訳です。
エホバの証人の本家本元(つまり、新世界訳聖書翻訳委員会)がそのように翻訳しているのですから、誰も反論できないのではないでしょうか。
以上より、テモテの手紙で説明されているのは役職としての「奉仕の僕」についてではなく、単に神の「奉仕者」についてだったと言えるでしょう。
イエス・キリストは古代イスラエル人に対して「奉仕者」となりました。パウロもフォイベも良いたよりの「奉仕者」となりました。
同じように私たちも、二枚舌を使ったり、大酒にふけらないような神の「奉仕者」になるべきである、というわけです。
それにしても、聖書中に存在すらしなかった役職を神はどのようにして「聖霊によって任命」するというのでしょうか。これもまた奇妙なことです。