エホバの証人たちが罪や間違いに対してギャーギャー騒ぎ過ぎている件 #19

前回の記事の続きを書こうと思います。ちなみに、前回の記事では以下3つのポイントについて考えました。

  • 正しい聖書の勉強方法とは?
  • 協会の出版物以外にどの書籍を参考にすべきか?
  • エホバの証人の新世界訳は間違っているのか?

今回の記事では以下3つの点について考えていこうと思います。参考になれば嬉しいです

  • JW現役の親や友人に覚醒の件を話すべきか?
  • 統治体や上層の兄弟たちには悪意があるのか?
  • エホバの証人たちは罪に対してギャーギャー騒ぎ過ぎている件

JW現役の親や友人に覚醒の件を話すべきか?

エホバの証人の組織が神の組織でもなんでもないことがハッキリする(覚醒する)と「このことを親や友人たちに話したい!」という気持ちが湧いてくる場合があります。

このような気持ちが湧き起こる理由としては、以下のような要因が挙げられるでしょう。

  • 自分が到達した結論を分かってほしい。理解してほしい
  • 自分が到達した結論を受け入れてほしい。支持してほしい
  • 単純に、良い情報や素晴らしい発見を大切な人たちと共有したい
  • 騙されていることに気付いてほしい。自分のように自由になってほしい

だいたい、上記に挙げたような気持ちがモチベーションとなって、自分の覚醒をJW現役のご両親や兄弟姉妹たちに話そうとする方々もいらっしゃるようです。

自分の覚醒を現役のご両親や友人たちに話すべきかどうかは一概に論じることができるテーマではないでしょう。

自分が覚醒したタイミングの他にも、現役の相手との信頼関係や精神的な距離感、話す相手がどれほど組織に惚れ込んでいるかなど、様々な要因によって状況は大きく変化するからです。

ただ1つだけ言えることは「何かに惚れ込んでいる相手を説得しようとする場合、それは30本の針の穴に1本の糸を通すくらい難しい」ということでしょうね。

理由は単純です。人は誰でも自分の考えを否定されることを嫌がるからです。

しかも、自分の考えていることが「自分は神から選ばれている!」とか「神に導かれている!」といった、自分の自尊心や存在意義を大きく支えてくれるような考えであれば、それにしがみつくのは人として当然でしょう。

彼らからすれば、組織を否定したり覚醒について話したりしてくる私たちは、自分の自尊心や存在意義を攻撃してくる敵でしかないでしょうから、普通に考えて相手が「ウンウン、そうだね」と受け入れる確率は恐ろしく低いと思います。

むしろ、相手は必死になって反撃してくることが容易に予想されるでしょう。でもまぁ、これは自分を傷つけようとしてくる敵に対する自然な防御反応ですから驚く必要はないでしょうね・・。

結論として、この辺りの相手の心理状況も踏まえて、こちらとしては精神的かつ時間的な余裕をもって取り組みたいところですね。

エホバの証人を運営している統治体たちに悪意はあるのか?

アンチJWの方々の中には次のように考える場合があるようです。

「統治体たちは本当はエホバも聖書も信じていなくて、悪意があってお金儲けのためにだけにものみの塔を運営しているんだ!」

なるほど。統治体たちはエホバも聖書も信じておらず、単純に金儲けのためだけに「宗教ビジネス」をやっているだけだと言うわけです。

これに関しては、なんとも言えませんね・・。

なぜなら、私は統治体の方々と仲良くしているわけでもありませんし、彼らのことを個人的に知っているわけでもないからです。

ただ、この点に関して参考になりそうな2つのポイントがあると思います。

  1. 1970年から1981年まで統治体メンバーだったレイモンド・フランズ兄弟の内部告発の書籍を読むと、統治体内部の大体の雰囲気を知ることができる
  2. 地元の長老たち / 地域・巡回監督たちは無報酬で働いているので、少なくとも彼らに金銭的な動機はない

レイモンド兄弟による内部告発の書籍は出版が1983年とだいぶ古いので現在の統治体たちのテンションを完璧に反映しているとは言えません。

ただその書籍の中では、当時の統治体たちは別に聖書に詳しいわけでも、聖書を誰よりも研究していたわけでもないということは十分に説明されています。

当時の統治体たちの延長線上に現在の統治体たちがいるとすれば、やはり彼らも大したことがないということが分かるのではないでしょうか。

何よりも、今の統治体たちが監修し出版している最近の書籍やものみの塔誌、組織の運営方法などを見れば、現在の統治体たちが何を考えているのか大体察することはできるでしょう。

創作者や運営者の心の奥にある意図や考えは、その作品や成果物をじっくり観察すれば大体わかるはずです。

エホバの証人たちは罪に対してギャーギャー騒ぎ過ぎる件

今回の記事の最後のポイント、それはエホバの証人は罪や違反に対して過剰に反応しすぎる点です。あまりに厳しすぎる、とも言えると思います。

例えば、盗みや性的な不道徳などに加えて、タバコを吸うことや乾杯など、聖書的(そしてエホバの証人的)に「あまりよろしくない」とされていることが幾つかあると思います。

もちろん、人としての正しさ(聖書的な清さ)を保つことは素晴らしいことだとは思いますが、エホバの証人の場合は罪や清さに対してはあまりにも性急かつ近視眼的だと個人的には思います。

つまり、罪や違反に対するエホバの証人たちのテンションと聖書の神のテンションがだいぶ違うのではないか、ということです。

JW組織と神のテンションがだいぶ違う具体例

仮に、異性と婚前交渉をしたとしましょう。あなたがエホバの証人の場合、あなたは速攻で「第二会場」に呼ばれます。

長老たち2名がテーブルを挟んで対面に座っています。あなたのいる第二会場は「重々しい水圧がかかる海の底」のように息苦しい雰囲気に違いありません。

長老たちはまるで、あなたが3億円の花瓶を割ってしまったかのように話し合いを進めるに違いありません。

  • 「うわーーー大変だーーーぎゃあああああ」
  • 「なんてこったあーーーなんて恐ろしいことをーーーぎゃあああああ」

伝統的にキリスト教は婚前交渉を固く禁じてきたという歴史がありますので、このように長老たちが(実際に声は出さないにしても)大騒ぎしてしまう気持ちも分からなくはありません。

しかしながら、モーセの律法には婚前交渉をした男性がどのようなプロセスを踏むべきかが分かりやすく説明されています。そして、それはJWのテンションとはだいぶ違うわけです。

(律法はユダヤ社会の文化的に男性のケースしか説明していませんが、女性のケースもおおよそ同じようなテンションになるかと思います)

モーセの律法の場合は、おおよそ以下の感じになるでしょう。

  • 婚前交渉をしたんだね。なるほど・・では相手の娘さんの将来や経済面のことを考えてその娘さんと結婚することが望ましいのだけど、君にはその意思があるのかい?
  • 結婚の意思がある場合は相手のためにも早く結婚しようね。そりゃそうでしょ。男としての当然の責任を果たそうね。
  • 結婚する意思がないだって?なるほど・・では、相手のご両親と娘さんに迷惑をかけることになるから慰謝料を払わないとね。300万くらいだけど頑張って払ってね。(終わり)

すごく現実的じゃないですか?笑

ここでのポイントは、モーセの律法では相手の尊厳や自尊心を傷つけることなく、事務的かつ合理的に物事が処理される点です。

モーセの律法の場合は基本的に、何らかの罪や違反を犯してしまった人に対しては結構事務的に淡々と落とし前をつけさせて、それであっさりと終わっている印象があります。

モーセの律法のスタンス

  • 「まぁ何をするにも自由だけど、相手に迷惑がかかっている訳だし、しっかりケジメはつけてね」(終わり)

JW組織のスタンス

  • 「あああ!なんと恐ろしいことを!!エホバ!この罪深い兄弟(姉妹)をお許しください!!一緒に神に祈りましょう!!」

罪や違反に対する神のスタンスはだいぶ大らかなはず

聖書の神に限って言えば、人間が犯してしまう罪や違反に対するスタンスはそもそもだいぶ大らかなものだと思います。

聖書的な理由としては幾つかありますが、根拠としては主に以下のようなものが挙げられるでしょう。

  • 神はそもそも古代イスラエルの超1級の全国民的な度重なる犯罪行為(偶像崇拝や子供を焼くなど。ほか多数)を1000年以上も忍耐してきた。今更、ひとりの人間が犯す罪や違反など別に大したことではない
  • ヨシュアたちが諸外国に攻め込む前に、神は諸外国が犯していた超1級の甚だしい犯罪行為(偶像崇拝や子供を焼くなど。ほか多数)に対して40年間の執行猶予をさえ与えていた。今更、ひとりの人間が犯す罪や違反など別に大したことではない
  • イエスはペテロに「自分に対してなされる違反を7回までではなく、77回許しなさい」と勧めている。つまり、神もキリストも人間が犯すどんなに大きな罪や違反であっても何回でも許してくれると考えるのが妥当
  • 本来、聖書や神が注目しているのは「どれほどの罪を犯してきたか?」ではなく「最終的に望ましいか?」。ゆえに、最終的に(最後の審判の時に)神の基準に達していればそこに至る過程はどうでも良い(ペテ二 3:14)

ここでもやはりエホバの証人は聖書を踏み越えている

このように聖書の中に本来流れている雰囲気を俯瞰して見ますと、それはエホバの証人の「審理委員会」に流れている雰囲気とはだいぶ違うことが分かります。

つまり、ここでもやはりエホバの証人たちは聖書や神の掟を踏み越えている訳です。

この状況を例えるなら、先月入社したばかりのバイト君が社長の意見を差し置いて従業員を罰しようと大げさに騒ぎ立てている状況に似ています。

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社長
「まぁ〜ね。人間ってよく間違えるもんだからね。最終的に改心してくれれば、最終的にいい仕事をしてくれれば私は何でもいいんだけどね・・」

先月入社したばかりのバイトJ君
「1回でも2回でもミスはミス!!そのミスを徹底的に認めさせるべき!心から反省させるべき!!その為ならどんな恥辱も仕方ない!!」

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J君とは対照的に、イエスは罪や違反を犯した人たちに対して(あるいは現在進行形で犯している人たちに対してさえも)優しく寄り添う気持ちを示しています。

当時、イエスがパリサイ人たちと一緒に食事をしているときに水商売で生計を立てていた娼婦の女性(現代でいうソープ嬢など)がやってきたことがありました。

パリサイ人たちは軽蔑的な視線をその女性に対して注いだに違いありません。きっと、その時パリサイ人たちの間に流れていた「おいおい・・ソープ嬢だよ・・やばいよ」感はJW内に流れている雰囲気に近かったに違いありいません。

しかし、イエスはその女性に対して何と語りかけたでしょうか。

「大丈夫ですよ〜。あなたの罪は許されていますから安心して大丈夫ですよ〜」

です。

イエス・キリストは、その女性が抱えていたであろう心の葛藤や惨めさ、やむを得ない状況などを全部ひっくるめて、それに心からの同情を示して「大丈夫ですよ。私はあなたの味方だから諦めないで頑張って下さいね」と寄り添っている訳です。

さすが、キリストですね(ルカ7:47)。

対照的に、エホバの証人は隣人を審理する権利をチリほども持っていないにも関わらず「審理」委員会などと甚だしく冒涜的な名称を使って隣人を裁こうとします。いえ、実際に神に代わってその人の善し悪しを裁きます。

1つ言いたいのですが、「人の善し悪しを裁くこと」は聖書的に言えばキリストが神から与えられている将来の仕事です。

将来、神のひとり子が天の王座についた時にのみ与えられている「人を審理し裁く」という仕事を、何で王国会館というみすぼらしい人間の建物の、しかも第二会場という狭苦しい小さな箱の中でやっちゃってるんですか?バカじゃないかと笑

神がキリストに与えた仕事を、いきなり横から奪い取って自分たちでやっちゃってる辺りは、もはや僭越を通り越して神とキリストに対する冒涜だと言えるでしょうね。

非常に恐ろしいことです・・。

まとめ

前回の記事の最後で予想した通り、やはりエホバの証人(とそれを運営する上層部の兄弟たち)は聖書の勉強不足だということが分かりました。

勉強不足なら勉強不足なりに黙っていれば良いものを「審理委員会」なんてキリストの代わりに裁判みたいなことまでやっている始末です。

まぁキリスト教の暗黒の歴史からすればいかにも人間がやりそうなことですが、それにしてもキリスト教を語る者に限って言えば「勉強不足」というのは本当に命取りですね。

恐ろしや恐ろしや・・。

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