聖書が言ってることと違うよね?笑 JW組織からフェードアウトした話
名前:るい(男性)
年齢:30代
エリア:東北
現役期間:6才~26才(約20年間)
現役時代の状態立場:奉仕の僕
消滅タイプ:フェードアウト
執筆:2018/08/14

エホバの証人と関わるようになった経緯
私がエホバの証人と関わるようになった理由は非常に一般的で、母親がエホバの証人だったからです。
母親は私が6歳の頃に、同じマンションに住む友人の紹介でエホバの証人と関わるようになりました。
母親はもともとキリスト教系の高校を卒業しており、聖書が好きだったようです。加えて、その友人が紹介したエホバの証人の姉妹の人柄にも惹かれたようで、聖書研究を続けていたとのこと。
エホバの証人の道に深く踏み込むキッカケになったのは「見よ!」のブローシュアの中の「イエスの贖い」の教えだったようです。
人類の救いのために自分の命を犠牲にしたという「イエスの贖い」の教えに深く感動した母親は、ますます聖書研究に集中するようになり、それに比例してエホバの証人との付き合いも深くなっていきました。
1年ほどが経過し、私が7歳になる頃には父親の反対を振り切って母親は定期的に集会に出席するようになります。
父親は「宗教は怪しい」というありがちな理由で反対するようになったわけですが、「命がかかっているから」という、これまたありがちな理由で母親は子供である私を連れて集会に出席するようになりました。
しかし、父親の反対がそれ以上激しくなることはありませんでした。母親の熱心さと「キリスト教はそこまで悪い宗教じゃない」という気づきがあったようです。
自分の妻と幼い子供が夜中に週3回もどこかへ出かけてしまう(自分は独りでテレビを見ながら夕飯を食べる)ことに少なからずの感情的な抵抗はあったようですが(そりゃそうだ)、そこまで大きな反対はありませんでした。
以上のような経緯で、私自身も幼少の頃よりエホバの証人の組織と深く付き合うこととなります。
書いていてなかなか懐かしい記憶ですね。
エホバの証人の頃の思い出
初期
確か、一番初めに通った王国会館は1階にセブンイレブンの入った雑居ビルにあったと思います。私が交わり初めてすぐに新築の王国会館が建設されたので、私の幼少の頃の思い出はその王国会館での思い出となります。
その当時はちょうどMTS・・ではなくて、なんでしたっけアレ、RBCによる王国会館の建設ラッシュが始まった頃でした。
日本各地のエホバの証人の集会場が、雑居ビルの1室や公民館などから、外見や内装が美しく統一された「王国会館」へと移行した時期だったと思います。
当時は「集会」と言えば、神権宣教学校と奉仕会・書籍研究・公開講演とものみの塔研究の週3回でしたね。
当然ながら集会のプログラムは、小学校低学年の子供にはツマラナイ内容で、私は主に集会前後の兄弟姉妹たちや同年代の友達たちとの交わりを楽しみに集会に行っていました。
今は知りませんが、昔のエホバの証人は集会に交わっている年齢層も幅広く、王国会館には老若男女の兄弟姉妹たちや幼い子供達がワイワイガヤガヤと賑わっていたイメージがあります。
私が交わっていた福岡県にあった会衆は成員が60名未満(忘れましたが多分)と小さな会衆でしたが、みんな仲が良く、私も含めて子供たちを大切にするという良い雰囲気がありました。
なので、私の小さい頃は年配や大人の兄弟姉妹たち、そしてお兄さんお姉さんの兄弟姉妹たちからとても可愛がられた記憶があります(この点は今でも非常に感謝しています)。
やはり皆さん聖書を重んじている人たちなので、親切や思いやりや慎みなど、いわゆる「霊の実」を実践しようと努力していたのでしょうね。
良い会衆に恵まれたという「運」もあったでしょうが、このように私の幼少期は比較的良い環境、比較的良い人々に囲まれて過ごすことができました。
中期
エホバの証人としての中期の思い出も、私の場合、そこまで悪くはないと思います。
私の場合の「中期」とは、小学3年生?で神権宣教学校に入った辺りから、二十歳で開拓者になった辺りまででしょうか。いわゆる「子供〜青年」の時期ですね。
この頃の私は単純にエホバの証人として組織内でも、一般的な青年として学校内でも色々と楽しんでいたと思います。
当時交わっていた会衆では、バーベキューや野外集会といった大きな交わりはもちろん、食事招待や書籍研究後の軽食といった小さな交わりまで、何かと「交わり」が頻繁にありました。
会衆内には同世代の友達も沢山おりましたので、和気藹々と楽しくエホバの証人ライフを楽しんでいたと思います。
一方で、私は「一般的な青年として」スクールライフも色々と楽しんでいた方だと思います。
もちろん、柔道をしないとか、校歌を歌わない、応援に参加しない、クリスマスや豆まきといった行事に参加しないというエホバの証人特有の制約に関しては、今思い出してもかなり苦笑ものです。
何か「試練」があるたびに職員室に(独りで)出向いていって心臓がバクバクいっているのを必死でこらえながら先生に証言した、あの幼い日の記憶は今思い出しても「よくやってたよな自分・・苦笑」という感じです。w
なので、学校には友達もいたし普通に遊んでいて楽しかったけど、行事が近づいたり全校集会があったりすると「すごく嫌」でした。
「学生じゃない兄弟姉妹たちは試練も少ないしズルい」みたいに思ってましたね当時は。
数百名の生徒がいる中で一人だけ違うことをすることは高校生になる頃にはもう慣れてしまいましたが、小学生などの子供にはなかなか酷だと今でも思います・・。
さて、昔のエホバの証人の思い出を語るときに必ず出てくるであろう「ムチ(子供のお尻を叩くやつ)」に関してですが、ありがたいことに私の時代はムチが廃れつつある時代でした。
なので、覚えているだけでも母親からムチを打たれたのは2回ほどだと思います。
1回目は小3ぐらいの頃、学校の友達の家で「ストリートファイター」という格闘ゲームをやったため、2回目は(忘れましたが)多分、母親の言いつけを3回くらい聞かなかったためだったと思います。
私よりもっと上の世代の兄弟姉妹たちはムチの話でだいぶ盛り上がっていましたが(王国会館のトイレには太さに応じてムチが3種類並べられていたとか、長老が笑顔でムチの手伝いをしていたとか)、私は「へー大変でしたねー笑」という感じで聞いていました。
後期
私にとってのエホバの証人ライフ「後期」とは、開拓者になった二十歳あたりから始まったと言えると思います。
このころの組織や会衆は、子供達や若い人たちが昔に比べて徐々に減ってきて(離れる若者たちも多くなってきて)、ムチ世代の2世たちが長老や監督の大部分を占めるようになってきた頃だと思います。
この頃は私自身も二十歳前後と「若者」の真っ盛りで、同じ会衆や巡回区の兄弟たちと一緒に映画を観たり食事したり、県外に遊びに行ったり、必要の区域の奉仕をしたり忙しくしてました。
ただ、「組織ってなんか違うんじゃないの?」と感じる瞬間もこの頃から徐々に増えていった気がします。
特に、長老たちの偉そうな態度や、階級を否定しながらも「結局は階級じゃないのそれ?w」といった聖書とのギャップは間違いなく大きくなっていきました。
私は比較的若い頃から、聖書の中に出てくる「謙遜さ」や「へりくだった思い」という教えに共感しており、イエスの教えの「偉くなれば偉くなるほど、その人は謙遜になるべき」という教えに深く感動していました。
だから、少しでも偉ぶってる長老たちや姉妹たちに対して失礼な態度を取っている監督たちを見ると「いやそれはダメだろ!」と腹を立てていました。
このような感じだったので、二十歳前後の頃の私の目標は「とにかく謙遜な監督になる」と言うものでした。
姉妹たちや幼い子供達に対してしっかりとへり下って接するとか、やもめや目立たない若者たちを大切にする、といった事が当時の私の主な関心事だったと思います。
しかし、大会などの組織的な活動や開拓者学校、巡回監督や長老たちとの関係など、組織の内部に踏み込めば踏み込むほど、私が大切にしていた「謙遜さ」や「へり下った思い」が希少になっていくのを感じました。
特に、目立った立場についている兄弟たち(大会で話をするような兄弟や組織的に重要なポジションにいる兄弟たち)が「なんか聖書的に違うんじゃないのそれ?つか、人としてダメじゃないそれ?w」みたいな瞬間が出てくるようになりました。
もちろん、中には(心から自分の間違いを謝ってくるような)本当に謙遜で聖書的な長老もいるにはいましたが「明らかに少数派」でした。(多分5人の長老団のうち1人とか)。
しかも、そんな謙遜な長老に限って、どこからともなくやって来たMTS卒の威張っている感じの長老に特権を降ろされるとか、真面目で一生懸命頑張っている兄弟が奉仕の僕になれなくて、別の兄弟(不親切だけど長老の息子)とかがあっという間に奉仕の僕になるとか、そんな出来事が目立つようになってきました。
このように、私のエホバの証人ライフの「後期」では、私の知っている「優しい聖書の世界」と、目の前で広がり始めた「人間的な組織の世界」との乖離が徐々に大きくなっていった時期でした。
フェードアウトした理由
何分、中学生くらいから聖書を重んじながらエホバの証人をやっておりましたので「聖書を深く理解したい」という願いも人一倍強かったように思います。
なので、二十歳を過ぎた頃には参照資料つき聖書が一番好きでしたし、洞察の本の中で参照されている『ユダヤ古代誌』や『ユダヤ戦記』など、ヨセフスの著作を読むようにもなっていました。
「聖書を暗記しましたブログ」でも書いていますが、二十歳を過ぎた頃から苦痛に思えてならなかったのが長老たちや出版物の聖書理解のレベルの低さ、集会や大会のプログラムのつまらなさでした。
まずは、集会で話される兄弟たちのレベルの低さには徐々に我慢できなくなっていきました。
聖書という本の理解で重要になってくるのは、例えば古代イスラエルの歴史だったり、レビ族が行う祭司職の内容だったり、パウロが宣教奉仕に出かけたエリアの文化的な背景だったりするわけです。
しかし、集会や出版物ではそういった「詳しくて大切な部分」に触れるような内容に踏み込まれることはほとんど無いように感じました。
その代わり「アフリカでの王国会館建設」とか「世の影響に注意しましょう」とか「長老への従順はエホバのご意志」とか、非常にどうでもよい内容ばかりが繰り返し扱われているように感じました。
さらにがっかりしたのは、神から任命されている「はずの」兄弟たちの聖書に対する認識の軽薄さです。
例えばある時、奉仕の僕の兄弟に「いやー、ヘブライ人への手紙で使われているレトリックって凄いですよねー!さすがパウロですよねー!」と言ったことがありました。
するとその兄弟は「・・んー、僕はヘブライ人への手紙は難しくてよく分からないなー」とヘラヘラと笑うわけです。
また別の時に、特権をとらえて久しい兄弟に「いやー、聖書の個人研究って本当に大切ですよねー。やっぱり兄弟も聖書研究を頑張られてるんでしょうねー!」と言ったことがありました。
するとその兄弟は「僕はあまり聖書研究してないなー、頑張らないとなー、あはははは」と笑うわけです。私は一緒に作り笑いをしながら、心の中では「マジで言ってんのかこの兄弟?w」と半ギレでしたね。
極め付けは統治体の話の内容でした。ある時、統治体の一人が日本にやって来て、その講演を聴く機会がありました。
当時の私は確か23歳くらいで周りの兄弟たちの聖書に対する認識の低さに終始ガッカリしている頃でした。
それで「組織のトップである統治体の話なら、きっと聖書に対する熱い想いや深い内容が聞けるのではないか」と結構期待してプログラムに臨みました。
しかし、その統治体の兄弟の話には非常にがっかりしました。
色々と残念な点はありましたが、特に残念だった点は「I(私)」という単語が連発されていたことでした。
「私が・・」「私は・・」「当時の私は・・」「結婚した時の私は・・」「子供が産まれた時に私は・・」「私にとって・・」「私は昔・・」。
挙げ句の果てには、若かりし頃の武勇伝を自慢し始める始末です。
「当時の私は喧嘩っ早くて・・」「喧嘩っ早い性格を直すのがこりゃまた苦労でして・・」「今でも妻や子供が傷つくのを見ると大暴れしたくなる衝動を抑えるのに大変で・・」などなど。
それを聞いていた周りの兄弟姉妹たちはユーモアとして笑っていました。しかし当時の私の率直な感想は「あーこいつもダメだな」だったと思います。
当時は確か、パウロが書いた手紙を毎日2時間ほど音読していた頃で、パウロが自分の話の中でいかに「キリスト」や「神」という単語を連発して、聖書の教えを力説していることに感銘を受けていたタイミングでした。
パウロの話の中には本当によく「キリスト」や「神」という単語が出てきます。それを読んで「あー、パウロは本当に神とキリストを重んじているんだな」とか「パウロは本当に人々をキリスト教に改宗させたいんだな」と深く感銘を受けていました。
良くも悪くもそのタイミングで、統治体の「I(私!)」が連発する話を聞かされたわけです。確か彼は、8対2くらいの割合で「神(あるいはキリスト)」という単語よりも「自分」という単語を使っていたと思います。
以上の感じで、聖書(やその歴史)を勉強すればするほど、組織に踏み込めば踏み込むほど「聖書の世界」と「組織の世界」の乖離が大きくなっていくのを感じました。
その乖離が決定的になったのが24歳くらいの頃です。
この頃には、聖書周りの一般的な文献、例えば4世紀頃に書かれたエウセビオスの『教会史』とか、ユダヤ教に紀元前から伝わる『トーラー』とかの古文書を勉強していました。
なので、「エホバの証人」という世界の中に聖書があるのではなくて、「聖書」という広大な世界のかなり隅っこの方にエホバの証人という小さな組織があるんだな、という認識が明確になっていきました。
「なんだ、エホバの証人って大したことないじゃん・・そりゃそうだよねw」という認識が確実になっていったわけです。
こうして「あー、ひょっとして近い将来エホバの証人やめるかもなー」という漠然とした認識から、「うわー、これはエホバの証人やめないとヤバイなー」というハッキリとした危機感を覚えることになっていきます。
フェードアウトの時の様子
「エホバの証人をやめないとヤバい」と危機感を覚えるようになったのはやはり、神の名前を使って偽りを人々に教えた古代の偽預言者が、聖書の中では死刑に定められていたからです(申命記18:20-22)。
もちろん、100%エホバの証人たちが嘘を教えているわけではありません。
聖書をベースにしている以上(人に対して親切にしましょう等)彼らはある程度は正しくて善いことを教えると思います。
しかし、数パーセントでも神の名前を使って偽りを教えている可能性があるとすれば(例えば公開講演で聴衆に対して「長老は神から任命されているので従いましょう」と教えるなど)、それは自分の命に関わる非常にリスクの高い行為だと考えるようになりました。
神の名前を安易に使うべきではないことなど、十戒の2番目(あるいは3番目)で警告されている聖書の基本中の基本でしょう。
つまり、エホバの証人としてクリスチャンをやっていく事が、かなり割に合わないギャンブルだと考え始めたわけです。
このようにして「さて、自分の救いを達成するためにもボチボチ組織から抜けるとするか・・」と思い至る訳です。
ただし、組織を抜けるにあたってネックとなることが2つありました。
- 熱心なエホバの証人だった母親の存在
- お世話になった兄弟姉妹たちの存在
まずは、母親の存在に関してですが、結果的に問題ありませんでした。
私が「組織おかしいんじゃないのか?」と考えていた20代前半あたりから、このテーマについては時折ですが母親と話し合いをしていましたし、母親自身も組織と聖書の教えとのギャップに困惑を感じていたようです。
加えて、私は当時からエホバの証人が「聖書の世界」から見るといかにちっぽけな存在かを、聖書それ自体や、一般のキリスト教関連の書籍から母親に説明してもいました。
もともと母親も「エホバの証人の組織」というよりは「聖書」を重んじていたようですので、「組織」から「聖書」を剥がす作業にはそこまでの抵抗はなかったようです。
次に、小さい頃からお世話になっていた(自分を可愛がってくれていた)兄弟姉妹たちの存在がフェードアウトの際のネックでした。
私は単純に、その方々を悲しませたくありませんでした。
私が排斥になったり断絶されたりすれば、兄弟姉妹たちは「彼はサタンに食べられてしまった」とか「あんなに応援していたのに」とか、非常に悲しむ(あるいはショックを受ける)ことは目に見えていました。
私はそれを望みませんでした。むしろ、彼らには幸せなまま、私に関する記憶が徐々に消えて無くなっていって欲しいと思いました。
「さてどうしようか・・」と、24歳当時の私は近所のスタバで思い悩んでいましたが、今となってはこれも懐かしい思い出ですね。w
とてもありがたい(?)ことに、組織からのフェードアウトを計画していたその頃、母親は少し重めの体調不良のために集会を休みがちになっていました。
私は「フェードアウトに母親の不調を利用しよう」とすぐに思いつきました。つまり、「母親の体調があまりにも悪いので看病をしなくてはいけない」ということにしたのです。
一気に集会や奉仕を休むようにすると余りに不自然だと考えたので、徐々に(だいたい1年くらいかけて)、いわゆる「不活発な状態」にまでもっていきました。
ただ、小さい頃から私や母親と親しくしていた兄弟姉妹たちがお見舞いに来たり、食事を作って家を訪ねてくる可能性がありました。
「母親の体調が悪すぎて看病している」という理由で通している手前、実際はそこまでそうではない姿を見られるのは少しまずいと思いましたので別の巡回区に引っ越しもしました。
引越しの理由は「都会の空気は体に悪いから」にしました。
実は、その頃の母親は実際に大きく体調を崩していましたので(一時期は本当に私の看病が必要になったほど)、私の発する理由はかなり真実味があったと思います。
以上のように、私のフェードアウトはかなり会衆の兄弟姉妹たちの気を遣った計画的なものでした。
ちょうど、母親の体調不良とフェードアウト時期を重ねることができたので、私としてはとても助かったわけですが。
「家族の看病」プラス「巡回区外の会衆」、この2つの要因があったので私は自分の伝道者カードの所在をあやふやにする事ができ、晴れて静かにフェードアウトすることができました。
引越し先ではエホバの証人たちが家に来ても居留守を使いましたw 1年間ほどは1ヶ月に1回ほど長老みたいな男性が訪ねて来てましたが、その後は誰もこなくなりました。
私のフェードアウトはこんな感じです。
振り返ってみると色々と都合の良い状況を上手に活用できたように思います。
多分、お世話になった兄弟姉妹たちの間では私については「どこに行ったのかよく分からないけど、懐かしい兄弟(少し心配)」みたいになっていることと思います。
フェードアウトした後の苦労
私の場合は母親も一緒にフェードアウトしておりますので、フェードアウトに関する家族絡みの大きな苦労はありませんでした(母親の体調悪化に関しては少し苦労しましたが)。
親戚もみんな世の人ですので、むしろ私たちの脱塔をみんなで喜んでくれました。
しかしながら、捉え方によっては大きな苦労があるにはありました。
- 友達が0人になった
- 世捨て人から一般人になった
- 人と接する機会が激減した
まず、友達が激減しました。というか0人になりました。w
次に、一般社会に馴染むのに少し苦労しました。でもまぁ、一般社会のみなさんは当然ながら親切な方も多いのですぐに馴染むことができました。
最後に、人と接する機会が激減しました。
組織と距離を置くようになった直後は流石に寂しさを感じましたので、一般の世の「社会科見学」も兼ねてネットでいろんな人と交流するように心がけていました。
「社会科見学」が意外と楽しかったので寂しさはすぐになくなりましたが、聖書やエホバの証人について話せる交流は少しは残しておこうと思いました。
それで急遽、誤魔化しが効きそうな(巡回区外の)兄弟と(熱心ではないけど仲の良かった)研究生の2名ほどとの交流は残すことにしました。
フェードアウトから数年以上たった今でも、彼らとは仲良くさせてもらっています。
フェードアウトして良かった点
とにかく自由な時間や、仕事に集中できる時間が激増しました。
集会の準備や集会に取られる時間、奉仕場所までの移動時間や奉仕に取られる時間、その他の会衆の雑用など、地味に時間が奪われていましたから。
「全ては神への奉仕だ」と考えていた頃はそこまで苦ではありませんでしたが、「エホバの証人はそこらへんによく転がってる人間の組織」と考えるようになってからは「会衆内での奉仕」は苦痛でしかありませんでした。
一刻も早く無駄な時間を無くしたかったので、集会や奉仕などから解放された時は、とても清々しい気持ちになったのを覚えております。
自分が以前からやりたかった勉強や仕事に打ち込める時間が激増した、これがエホバの証人をやめて得ることができた大きな収穫の1つだと思います。
最大の収穫、それは皮肉ですが「自分の信仰を守ることができた」点だと考えております。
とにかく、エホバの証人として「聖書を信じる」のはあまりにリスクがデカ過ぎました。
偽りかもしれないことをステージで発言させられる公開講演や奉仕会でのプログラムなど、私にとってはあれは単純に「信仰の試み」でした。
「偶像崇拝をすると将来の裁きで裁かれるリスクがある」のと全く同じテンションで「公開講演で神の名前を誤用すると将来の裁きで裁かれるリスクがある」と考えていたわけです。
ですので、単純にエホバの証人じゃなくなり神の名前を誤用して死刑になるリスクヘッジができていると思うと、とても気が楽です。
排斥について思うこと
人としても聖書的にも「間違っている」と思います。
それを大真面目に(審理委員会なんて仰々しい「おままごと」まで開催して)神の名前と聖書を誤用するとは、なかなか図太い神経をしているなと思います。
今後の人生設計など
エホバの証人の組織という「故郷」を後にして数年が経ちましたが、「故郷」を懐かしむ事はあれど、もう戻ることはないでしょう。
今後は、自分の「終わり」が来るその時まで、自分が為すべきことを為すために最善を尽くしたいと思います。
自分の「終わり」が来たその瞬間に「楽しかったよ!ありがとう人生!」と心から満足できるように、1日1日を大切に、かつ計画的に生きていければ嬉しいです。