「大娼婦」と「ベテル」の正体
エホバの証人は啓示の書の中の淫行を繰り返す「大娼婦」のことを「キリスト教世界」と考えているようですがこれは間違いでしょう。
もともと聖書の中で「淫行を繰り返す女」と言えば、それは決まって古代イスラエル国民のことを指しているからです。
聖書全体を貫いている「神と国民とのドロドロした因縁関係」をしっかり把握していれば、啓示の書で神が言及している「大娼婦」の正体についてあれこれと頭を悩ませる必要はないはずです。
分かりやすい例が、エレミヤ書とエゼキエル書でしょう。エレミヤ書であれば2章から4章、エゼキエル書であれば16章あたりが分かりやすいと思います。
「売春婦」「姦婦」「淫行を犯した」「契約を破った」という表現が幾たびも古代イスラエルに対して繰り返され、その甚だしい売春行為が生々しく糾弾されています。確認してみて下さい。
そもそも、神が過去に協力の契約を結んでいたのは古代イスラエル国家とであり、現代のキリスト教世界とではありませんでした。
神は現代のキリスト教世界とはなんの協力体制も敷いてませんし契約も結んでない。そもそも契約を結んでないのですから神に対して姦淫もクソもありません(エゼキエル 16:8)。
さらに言うならば、ヘブライ語聖書でもギリシャ語聖書でも神が目を向けておられるのはもっぱら古代イスラエル国民か諸国民たちです。
神からしたら「キリスト教世界」という現代人が自分たちの便宜のために作り上げた枠組みなど無きに等しいでしょう。
「ベテル」について
さらに、エホバの証人が使い方を間違えているもう一つの表現として「ベテル」という言葉があります。
エホバの証人たちは「ベテル」という名称を大変ありがたがり「神の家という意味があるから」という理由で、本部と世界各地にある支部のことを「ベテル」と呼んでいます。
しかしながらヘブライ語聖書の中で「ベテル」と言えば、それはイスラエル王国の分裂後に偽りの崇拝の中心地となった非常に縁起の悪い場所のことでした。
自分たちの建物に「ベテル」という不吉な名称をつけた当時の指導的な兄弟たちは一体何を考えていたのでしょうか。
ただ、洞察の本には「ベテル」の意味がしっかりと記述されていましたので、参考のために該当箇所を引用しておきましょう。
かつてはまことの神が啓示をお与えになった場所として際立っていたベテルも、ヤラベアムの治める北王国の主要都市となってからは、偽りの崇拝の中心地として知られるようになりました。・・レビ族ではない部族から選び出された祭司たちを擁するベテルは、真の崇拝からの大それた背教の象徴となりました。
聖書に対する洞察Ⅱ p719
そうです。「ベテル」とは真の崇拝からの大それた背教の象徴なのです。
今日も海老名市にある「背教の象徴」の中で、統治体に騙された可哀想なクリスチャンたちが身を粉にして働いている事でしょう。
序章. 3分で論破
序章として手っ取り早く3分で、JW統治体が背教者であることを聖書から論破してみます。
本編に入る前の準備運動だと思って読んで下さい。とりあえず2つの論破アプローチを挙げておきますね。参考にどうぞ。
①「油注がれてます」NG
そこでイエスは答えて言われた、「だれにも惑わされないように気を付けなさい。多くの者がわたしの名によってやって来て、『わたしがキリスト (油注がれた者) だ』と言って多くの者を惑わすからです。
その時、『見よ、ここにキリスト (油注がれた者) がいる』とか、『あそこに!』とかいう者がいても、それを信じてはなりません。
偽キリストや偽預言者が起こり、できれば選ばれた者たちをさえ惑わそうとして、大きなしるしや不思議を行うからです。ご覧なさい、わたしはあなた方にあらかじめ警告しました。
マタイ 24:4,5,23
キリスト(Christ):
ギリシャ語クリストスに由来するこの称号は、ヘブライ語のマーシーアハ、つまり「メシア;油注がれた者」に相当します。(マタ2:4, 参照資料付き聖書脚注と比較。)
洞察1 p762
エホバの証人の統治体たちは「自分たちは油注がれた者である」と発言している。
イエスの警告によると、それを信じてはいけない。つまり、統治体たちは背教者。
3分論破おわり。
②「預言ミス」NG
話すようにとわたしが命じたのではない言葉をあえてわたしの名において話す預言者、その預言者は死ななければならない。
もし預言者がエホバの名において話しても、その言葉が実現せず、その通りにならなければ、それはエホバが話されなかった言葉である。その預言者はせん越にそれを話したのである。
申命記 18:20-22
エホバの証人の統治体たちは、1914年「瞬く間に天に昇る」、1975年「終わりが来る」など、神の名において話して何度も実現しなかった発言をしている。
聖書によると、実現しなかった場合は神は話していない。
つまり、統治体たちはせん越に話した偽預言者。死ぬべき。
3分論破おわり。
いかがでしたか?
次からが本編です。
1章.『聖書の基本』へ
エホバの証人の「世代」についての混乱をアッサリ解決するとこうなる
まずは、イエスが発言した「世代」の意味について考えます。早速、問題となっているイエスの発言を確認しましょう。
あなた方に真実に言いますが、これらのすべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません。
マタイ 24:34
問題となるのは「この世代」という表現ですが、「この世代」とは一体誰のことでしょうか。
実は、答えを私たち自身で推測する必要はありません。
なぜなら、イエス・キリストはご自身の宣教中に「この世代」という表現を何回か使っているからです。上記の話の直前でも使っています。
ゆえに、イエスが誰に対して「この世代」という表現を使っていたか、単純にそれがそのまま答えになります。
では、マタイ書の記述の中に見られるイエス・キリストの「この世代」に関する発言を確認してみましょう。まずは、マタイ12章に見られる発言です。
その時、書士とパリサイ人の幾人かが彼に対する答えとしてこう言った。「師よ、私たちはあなたからのしるしを見たいのですが」。
イエスは答えて彼らに言われた、「邪悪な姦淫の世代はしきりにしるしを求めますが、預言者ヨナのしるし以外には何のしるしも与えられないでしょう。ヨナが巨大な魚の腹の中に三日三晩いたように、人の子もまた地の心に三日三晩いるのです。
ニネベの人々は裁きの際にこの世代と共に立ち上がり、この世代を罪に定めるでしょう。彼らはヨナの宣べ伝えることを聞いて悔い改めたからですが、見よ、ヨナ以上のものがここにいるのです。
南の女王は裁きの際にこの世代と共によみがえらされ、この世代を罪に定めるでしょう。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからですが、見よ、ソロモン以上のものがここにいるのです。
マタイ 12:39~42
この部分でイエスは、書士とパリサイ人たちに代表される「邪悪な姦淫の世代」つまり、不従順な古代イスラエルに対して「この世代」という表現を使っていることが分かります。
書士とパリサイ人たちに代表される不従順な古代イスラエルがイエスをメシアとして受け入れなかったこと、それゆえにイエスは彼らを叱責され「邪悪な姦淫の世代」とか「この世代を罪に定める」と発言しています。
ちなみに、この聖句の中にはエホバの証人たちにとっては理解不能であろう(しかし「世代」発言を理解する上ではとても大切な)表現が2つほど出てきています。それは以下の2つです。
- ニネベの人々は裁きの際にこの世代と共に立ち上がり、この世代を罪に定める
- 南の女王は裁きの際にこの世代と共によみがえらされ、この世代を罪に定める
これらは一体どのような意味なのでしょうか。1つずつ置き換えて考えてみましょう。
まず「この世代」というのは、書士やパリサイ人たちに代表される不従順な古代イスラエルのことでした。これは先ほど確認した通りです。
次に「立ち上がり」や「よみがえらされ」という表現ですが、これは「復活」のことを意味しています。この点も、ほとんどのエホバの証人にとって難なく受け入れられることだと思います。
では、確認済みの表現に置き換えてみましょう。
- ニネベの人々は裁きの際に不従順な古代イスラエルと一緒に復活し、不従順な古代イスラエルを罪に定める
- 南の女王は裁きの際に不従順な古代イスラエルと一緒に復活し、不従順な古代イスラエルを罪に定める
エホバの証人たちからすれば、これらの表現を理解することは非常に難しいことだと思います。おそらく不可能でしょう。
なぜなら、ヨナが宣教したあのニネベの人たちと不従順な古代イスラエルが一緒に復活するなどといった考え方には全く馴染みがないからです。組織はそんなこと一言も言っていません。
さらに、ソロモンの知恵を聞きにやって来たあの女王が不従順な古代イスラエルと一緒に復活するといった考え方にも全く馴染みがありません。組織はそんなこと一言も言ってないのです。
組織が言っていないにせよ、イエス・キリストは次のように言っています。
あなた方に言いますが、人が語るすべての無益な言葉、それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。
マタイ 12:36
またその時、人の子のしるしが天に現れます。そしてその時、地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき、彼らは、人の子が力と大いなる栄光を伴い、天の雲に乗ってくるのを見るでしょう。
マタイ 24:30
さらに、組織が言っていないにせよ、ペテロやパウロは次のように言っています。
またこの方(イエス・キリスト)は、民に宣べ伝えるように、そして、これが生きている者と死んでいる者との審判者として神に定められた者であることを徹底的に証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
使徒 10:42
わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つことになるのです。・・わたしたちは各々、神に対して自分の言い開きをすることになるのです。
ローマ 14:10~12
わたしたちは皆キリストの裁きの座の前で明らかにされなければならないからです。こうして各人は、それが良いものであれ、いとうべきものであれ、自分が行ってきたことにしたがい、その体で行った事柄に対する自分の報いを得るのです。
コリント二 5:10
わたしは、神のみ前、また生きている者と死んだ者とを裁くように定められているキリスト・イエスのみ前にあって、またその顕現と王国とによって、あなたに厳粛に言い渡します。
テモテ二 4:1
これらの聖句を踏まえると、イエス・キリストは人類すべてを復活させ人類すべてを裁判にかける、ということになります。そのために「天の雲に乗ってくる」わけです。
この観点から言えば、キリストの裁判のときにはニネベの人たちも南の女王も不従順な古代イスラエル国民も、人類みな共に復活し、人類みな共にキリストの裁判を受けることになります。もちろん、私たちもです。
キリストの裁判のとき、不従順な古代イスラエルはニネベの人たちよりも不利な裁きを受けることが予想されます。なぜなら、ニネベの人たちは預言者ヨナを受け入れましたが、古代イスラエルはキリスト本人を拒否したからです。
キリストの裁判のとき、不従順な古代イスラエルは南の女王よりも不利な裁きを受けることが予想されます。なぜなら、南の女王はイスラエルの王ソロモンを受け入れましたが、古代イスラエルはキリスト本人を拒否したからです。
キリストの裁判のときにはニネベの人たちも南の女王も不従順な古代イスラエル国民も、人類みな共に復活し、人類みな共に裁かれる。イエス・キリストはこのように教えているのです。
では、話を「世代」に戻しましょう。
マタイ12章では、イエスは不従順な古代イスラエルに対して「この世代」という表現を使っていたことが確認できました。さらに、イエスが「この世代」という表現を使っている箇所がもう一つあります。マタイ23章です。
偽善者なる書士とパリサイ人たち、あなた方は災いです! あなた方は預言者たちの墓を建て、義人たちの記念の墓を飾り付けて、こう言うからです。「我々が父祖たちの日にいたなら、彼らと共に預言者たちの血にあずかる者とはならなかっただろう」と。
・・こうして、義なるアベルの血から、あなた方が聖なる所と祭壇の間で殺害した、バラキヤの子ゼカリヤの血に至るまで、地上で流された義の血すべてがあなた方に臨むのです。
あなた方に真実に言いますが、これらのこと全てはこの世代に臨むでしょう。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石打ちにする者よ・・
マタイ 23:29~37
イエスが「この世代」という表現を使っているのは誰に対してでしょうか。
この度も、書士とパリサイ人たちに代表される「あなた方」、つまり不従順な古代イスラエルに対してであることが分かります。イエスがこの直後に「エルサレム、エルサレム」と呼びかけていることからも、この点は明らかでしょう。
こうして、この発言の流れの中で、エホバの証人の間で問題となっている例の「世代」発言が続くわけです。弟子たちと一緒にオリーブ山から神殿を眺めている時にイエスは例の「世代」発言をしています。
ちなみに、イエスの「世代」発言を正しく理解する上でのポイントが2つあります。
1つ目のポイントは絶対に聖句をつまみ食いしないことです。エホバの証人は聖句のつまみ食いが大好きですが、聖書を正しく理解したい場合これは禁忌です。
弟子たちに対するイエスのこの「世代」発言はマタイ24:1から26:1までの2章にもわたる長い話の中のごくごく一部に過ぎません。ゆえに、イエスの話の全体を把握しておくことが大切です。
2つ目のポイントとして、「イエスの答えには二重の意味がある」などといった面倒な考え方もこの際捨ててしまいましょう。
聖書に記録されている預言の中に「二重の意味を持った預言」などは1つもありませんでした。なのになぜ、あえてここでキリストの預言だけを二重に解釈する必要があるのでしょうか。
さらに、イエス・キリストはあくまでも「古代イスラエル国民」に対して遣わされていたこと、そしてイエスご自身もあくまでこの立場にこだわっていたことを忘れてはいけません。
イエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊の他には誰のところにも遣わされませんでした」
マタイ 15:22~28
ゆえに今回は、あくまでもイエスは古代イスラエルを念頭において話をしておられた、という立場を取ってみましょう。
さて、2章にもわたるイエス・キリストの長い話は、以下のような弟子たちの質問がきっかけとなって始まります。
わたしたちにお話しください。そのようなこと(神殿が崩壊すること)はいつあるのでしょうか。そして、あなたの臨在と事物の体制の終結のしるしには何がありますか
マタイ 24:3
- エルサレム神殿の崩壊という大惨事はいつ起こるのか
- キリストの臨在と事物の体制の終結では何が起こるのか
弟子たちの質問内容が上記の2点なので、当然ながらイエス・キリストの回答も2つのセクションに分かれています。
エルサレム神殿の崩壊はいつ?
まずは「エルサレム神殿の崩壊という大惨事はいつ起こるか」という質問に対してのイエスの答えですが、この部分はマタイ24章4節から22節までがその答えとなっています。
- 偽キリストが出現する(5)
- 戦争の知らせを聞く(6)
- 国民は国民に敵対して立ち上がる(7)
- 食糧不足や地震がある(7)
- クリスチャンは憎しみの的となる(9)
- 偽預言者が起こる(11)
- 不法が増して人々の愛が冷える(12)
- 王国の良いたよりが全地で宣べ伝えられる(14)
- エルサレムが軍隊に囲まれる(ルカ 21:20)
- 嫌悪すべきものが聖なる場所に立つ(15)
- ユダヤにいる者は山に逃げるべき(16)
- 乳児の母親にとっては災いの時(19)
- それが安息日にならないように祈る(20)
- 二度と起きないような大患難がある(21)
4節から14節までの記述は「事物の体制の終結のしるしは?」に対しての回答と考えても良いと思いますが、今回はあえて話の構成をシンプルにしてみようと思います。
ですから今回は、4節から14節までの回答もあくまで「エルサレム神殿の崩壊はいつ?」に対する回答だったという立場を取ってみましょう。
さて、エルサレム神殿の崩壊は実際に西暦70年8月30日に起きています。これは西暦66年から70年にかけて勃発した対ローマ帝国ユダヤ戦争の最終局面での出来事です。
当時のユダヤ戦争にユダヤの指揮官として参加していたフラウィウス・ヨセフス(37~100年頃)は当時の様子を実際に目撃し、当時の惨状を『ユダヤ戦記』にて詳しく記録しています。
当時を生きたヨセフスやパウロの証言と上記に挙げたイエスの発言を照らし合わせながら考えていきましょう。
偽キリストの出現
パウロの第3回目の宣教旅行の頃(後52~56年)には、パウロが心配するほどに偽キリストの問題は深刻化していたようです。
実際、パウロはテサロニケにあった会衆に宛てて「確かに、この不法の秘事はすでに作用しています」と言っていますし(テサロニケ二 2:7)、エフェソスの監督たちに対しても「あなた方自身の中からも」背教者が起こると言っています(使徒 20:30)。
以上より、エルサレム神殿が崩壊する西暦70年までには偽キリストが起こっており、既に「多くの者を」惑わしていたと言えるでしょう。
戦争の知らせを聞く
ユダヤ戦争の勃発にあたり、ローマ帝国軍の指揮をしていたウィスパシアヌス(後にローマ皇帝となる)はエルサレム北方に位置するガリラヤ地方の諸都市の攻略から取り掛かっています。
具体的な都市名を挙げると、ローマの軍隊はガバラ、ヨタパタ、ティベリアス、タリカイアイ、ガマラ、ギスカラといったガリラヤ諸都市と戦闘を繰り広げ、それらの都市を次々に攻略しています。
つまり、エルサレム神殿の崩壊に先駆けてエルサレムの人々は方々で勃発している戦争の知らせを聞くことになりました。
国民は国民に敵対して立ち上がる
西暦66年、ユダヤ人たちは明らかにローマ帝国に「敵対して立ち上が」りました。ユダヤ人たちはそれまでに決してしなかったような以下のような敵対的行動をとったのです。
- 神殿でのローマ帝国のための犠牲の中止(この慣習は100年以上続いていた)
- ローマ帝国への貢納(いわゆる人頭税など)の中止
- 総督官邸、大祭司官邸、宮殿などへの放火
こうした敵対的行動をもってユダヤ人たちはローマ帝国に宣戦布告をしました。そしてこの決断こそが、後に続く「苦しみの激痛の始まり」となったと言えるでしょう。
歴史家ヨセフスもこのユダヤ戦争に関して『ユダヤ戦記』の書き出しで次のように書いています。
わたしたちの時代においてばかりか、わたしたちが耳にしたかぎり、都市が都市にたいして、あるいは民族が民族に対して戦った戦争の中でも最大規模のものであった
ユダヤ戦記1 p19
食糧不足や地震がある
ヨセフスはエルサレム内の食料不足がいかに深刻で悲惨なものだったかを記録していますが、ここでは紙幅の都合上そのごく一部だけを引用しておきます。
妻は夫から、子どもは父親から食べ物を奪い取った。最も悲惨だったのは、母親が自分の幼子の口から食べ物を奪い取る光景だった。彼女たちは最愛の子が自分の腕の中で息を引き取ろうとしているときでも、その生命に必要な最後の一片の食べ物を奪うことをためらわなかった。・・実際、反徒たちは一片の食べ物を握りしめている幼子を抱き上げると、地面にたたきつけたりもした。
ユダヤ戦記2 p361
地震に関してですが、この箇所で利用されているギリシャ語「σεισμοὶ」はそもそも自然災害としての「地震」に限定される単語ではありません。「振動」の他にも「動乱」「動揺」や「どよめき」といった意味があることにも注目しましょう。
クリスチャンは憎しみの的となる
1世紀のクリスチャンがあらゆる国民の憎しみの的となり、あらゆる迫害に耐え忍ぶ必要があったことは歴史的にも有名です。その迫害は残虐さを極めたものでした。
西暦33年のキリストの死後からエルサレム神殿崩壊の70年までの40年弱の間、クリスチャンたちはユダヤ人たち、ローマ人たち、離散先の土地の人間たちから激しい迫害を受けました。
迫害の主な理由は、ユダヤ教の伝統から離脱したこと、当時は非常に一般的だった神々への崇拝(カエサル崇拝も含む)を断固として拒否していたことが挙げられます。カエサル崇拝の拒否は死罪に値しました。
偽預言者が起こる
ユダヤ戦争の前、そしてユダヤ戦争の期間中に実に多くの偽預言者が発生しました。ヨセフスも次のように記録しています。
ぺてん師やいかさま師どもが、神の霊感を受けたと称して大きな変革を作り出そうとして、人びとを説き伏せ、ダイモンに憑かれたかのようにさせて、荒れ野の中に導き出した。神がそこで彼らに開放のしるしを示してくれる、というのである。
ユダヤ戦記1 p314
エジプト人の偽預言者は、これよりも大きな一撃でユダヤ人たちに悪事を働いた。このいかさま師はユダヤの土地に現れると、自分を預言者だと信じ込ませ、騙された約三万もの者たちを集めると、彼らを荒れ野からオリーブ山と呼ばれるところまで引きまわし、そこからエルサレムへ押し入る構えを見せた。
ユダヤ戦記1 p314
後年になって、ヨセフスはユダヤ戦争を振り返り次のようにも書いています。
ユダヤ人たちの滅びの原因であるが、それは彼らがひとりの偽預言者にたぶらかされたためだった。その日偽預言者は、都の中にいる者たちに向かって、神はユダヤ人たちが神殿に登り、救いのしるしを受けるように命令されたと告げた。実際そのころ、多くの偽預言者が暴君たちによって雇われていた。この偽預言者たちは神の助けがあるからそれを待つようにと告げて市民をたぶらかしていた。
ユダヤ戦記3 p69
不法が増して人々の愛が冷える
ローマ軍に包囲されたエルサレムはまさに無法地帯でした。エルサレム内の暴徒たちがあらゆる不法をやってのけたので、市民たちはローマ軍が一刻も早く自分たちを攻略してくれることを切に待ち望むほどでした。
今や都の至る所が陰謀を企む者やならず者たちの戦場と化し、市民は、その間にあって引き裂かれ、市民たちの屍が山となった。年老いた者や女たちは、絶望のあまりローマ軍が一刻も早くやって来てくれるようにと祈り、外からやって来る者たちとの戦争で、内なる者たちの手による災禍から自由にされるのを切望した。
ユダヤ戦記2 p270
王国の良いたよりが全地で宣べ伝えられる
キリストの死後、ユダヤでの迫害が激しかったことも相まってクリスチャンたちは方々の国々へと離散していきました。「全地で宣べ伝えるように」というキリストの指示も彼らの背中を押したはずです。
注意すべき点ですが、ここでキリストが言っている「全地」という言葉を、現代の私たちの感覚で考えないようにすることは大切でしょう。
というのは、1世紀当時の世界人口は学者によってある程度のばらつきはあるものの、それは2億から3億程度とされているからです。
ゆえに、エルサレム神殿が崩壊するその時までに王国の良いたよりは私たちが考える以上に全地で宣べ伝えられていたと考えられます。パウロも西暦60年頃にコロサイ人たちの会衆に宛てて次のように書いています。
その良いたよりは天下の全創造物の中で宣べ伝えられたのです。私パウロは、この良いたよりの奉仕者となりました。
コロサイ 1:23
エルサレムが軍隊に囲まれる
この記述はマタイ書に記録されているイエスの発言ではなくルカ書に記録されているものですが、特筆すべき興味深い出来事だと思ったので挙げておきます。
ウィスパシアヌスの軍隊がガリラヤ攻略を始める半年ほど前の西暦66年11月25日、シリア総督のケスティオス・ガロスはエルサレムを軍隊で包囲していたにもかかわらず、不可解な撤退をしています。
この点は、ヨセフスも次のように記録しています。
とにかく、ケスティオスは、包囲された者たちの絶望感にも民衆の思いにも気づかず、突如兵士たちを呼び集めると、大きな一撃を受けたわけでもないのに(占領の)望みを捨て、まったく不可解にも、都から引き揚げて行った。
ユダヤ戦記1 p384
ケスティオスのエルサレム包囲の解除によってエルサレムの中にいたクリスチャンたちは確かに外へ脱出する機会を得ることができました。イエスの預言が確かに成就したと言えるでしょう。
しかし厳密に言えば、神殿が崩壊する直前のティトスによるエルサレム包囲の際にも、エルサレム内にいた人々は都から脱出することができました。
しかしこの時の脱出は非常に困難なものでした。というのは、ローマ軍に内部情報が漏れることを恐れた防衛側が投降しようとした市民たちを容赦なく殺していたからです。
嫌悪すべきものが聖なる場所に立つ
イエスのこの預言はエルサレム神殿が存在してた西暦66年にしか成就しえないものでしょう。1914年に当てはめようとするなら、かなりの無理が出てきます。
なぜならその時には「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが、預言者ダニエルを通して語られたとおり、聖なる場所に立っているのを見かける」必要があったからです。
ちなみに、エホバの証人たちはこの「荒廃をもたらす嫌悪すべきもの」をローマ軍のことと見なし、聖都エルサレムの包囲をもって「聖なる場所に立った」と考えています。
しかし、ヨセフスはこの点に関してエホバの証人よりも踏み込んだ解説をしているのでその部分を引用しておきましょう。
ヨセフスはエルサレム包囲の際、実際に神殿の聖所に足を踏み入れた集団がいたことを記録しています。
市民はすっかり意気消沈し、恐怖におののいたが、野盗たちの狂気はとどまるところを知らず、ついには自分たちの手で大祭司を選出するまでに至った。・・そして人間たちへの不正な行為に食傷すると、次には神的なものに傲岸不遜な振る舞いを振り向け、ついにはその汚れた足で聖所へ侵入するに至ったのである。・・野盗たちは神の聖堂を自分たちの要塞とし、市民の騒擾が起こればそこへ逃げ込めるようにした。そこは彼らにとって暴君として支配するための聖所だった。
神殿は今や彼らの作戦基地、避難所、われわれに向けられる武器の倉庫となり下がった。世界の人びとによって跪拝され、またその評判を聞いた地の果ての異民族たちによっても敬意を払われてきたこの場所は、他ならぬこの場所で生まれ育った獣のような者たちによって踏みにじられている。
(彼らは)祖国にたいしてなされた預言を成就させた。というのも、もし抗争があり、土地の者たちの手が神の神域を最初に汚すならば、その時には都は陥落し、聖所は戦いの掟により焼け落ちるとする、神の霊感を受けた者たちのいにしえの託宣があったからである。
ユダヤ戦記2 p156,p183,p205
ヨセフスが(恐らくダニエル書に言及し)ここまで踏み込んだ記述をしているのは注目に値するでしょう。エルサレムの市民たちは確かに「荒廃をもたらす嫌悪すべきものが聖なる場所に立っている」のを見ることができました。
ちなみに、暴徒の集団が神殿を制圧したこの時以降から徐々に市民たちへの監視の目は厳しくなり、エルサレムからの脱出が極端に難しくなっていきます。
ユダヤにいる者は山に逃げるべき
この記述も1914年に当てはめることは不可能でしょう。
乳児の母親にとっては災いの時
これは「食糧不足」の項目で確認した通りですが、エルサレム内の食糧不足は恐ろしいほどに深刻だったため母親は自分の子供を食べるほどでした。
マリアという女性に関するヨセフスの記述を引用しておきます。
実際、今やどこへ行っても食べ物を見つけることなどはできなかった。他方、飢えは五臓六腑を突き抜けて骨の髄にまで達し、苛立ちが飢え以上に燃え上がった。ついにマリアは怒りと空腹のため非道なことをやってのけるにいたった。・・マリアはひと思いにわが子を殺した。次にその死体をローストすると、その半分を夢中になって食べ、残り半分を隠し持った。
ユダヤ戦記3 p50
それが安息日にならないように祈る
この記述も1914年に当てはめることは不可能でしょう。
二度と起きないような大患難がある
以上より、ユダヤ人たちにとって国家の滅亡ならびにエルサレム神殿の崩壊に先駆けて勃発したユダヤ戦争こそが先にも後にもない「大患難」だったと言えるでしょう。
確かに、規模で比べてしまえば1914年に起きた第一次世界大戦の方がより「大患難」だったと言えるかもしれませんが、聖書的に言えば、イスラエル国家の滅亡と神殿の崩壊の方が第一次世界大戦とは比べ物にならないほど遥かに「大患難」です。
ゆえに、マタイ24章4節から22節までの記述はあくまで「エルサレム神殿の崩壊はいつか?」という弟子たちへの返答だっと考えるのが妥当です。
エルサレムから避難していた当時のクリスチャンたちは次々に実現していくイエスの預言を思い起こしては、背筋を凍らせていたに違いありません。
イエスの預言を無理にでも1914年に当てはめようとするのは個人の自由ですが、神の民であった古代イスラエルが西暦70年のユダヤ戦争においてまさに大患難を経験していたことだけは覚えておきましょう。
キリストの臨在と事物の体制の終結では何が起こる?
次に「キリストの臨在と事物の体制の終結では何が起こるのか」という質問に対してのイエスの答えですが、この部分は続くマタイ24章23節から31節までがその答えとなっています。
- 偽キリストや偽預言者が起こる(24)
- 人の子の臨在が稲妻のように起こる(27)
- 人々は人の子が天の雲に乗って来るのを見る(30)
- み使いたちが選ばれたものたちを集める(31)
神殿崩壊のように「いつ起こるのか?」という質問とは対照的に、この場合は「何が起こるのか?」に対する答えなのでわざわざ解説する必要はないでしょう。イエスの発言そのままです。
そして32節以降では、キリストの臨在について「あなた方はそれがいつ来るかを知らないのだから、ずっと見張っているように」という警告が7つの例え話によって繰り返されることになります。リストアップしておきましょう。
ちなみに、「忠実で思慮深い奴隷」の話も「見張っているべき」ことを強調するための7つの例え話のうちの1つに過ぎません。確認して下さい。
- いちじくの木の例え(32~35)
- ノアの日の例え(36~39)
- 二人の男と女の例え(40~42)
- 盗人の例え(43,44)
- 忠実で思慮深い奴隷の例え(45~51)
- 五人の思慮深い処女の例え(25:1~13)
- 外国へ旅行に出た主人の例え(14~30)
そして25章31節からは、キリストの臨在の後に起こるキリストの裁判の様子について詳しく説明がなされています。
これが「事物の体制の終結には何が起こるのか?」という弟子たちの質問に対する返答の終局部分となります。
人の子がその栄光のうちに到来し、またすべてのみ使いが彼と共に到来すると、そのとき彼は自分の栄光の座に座ります。そして、すべての国の民が彼の前に集められ、彼は、羊飼いが羊をやぎから分けるように、人をひとりひとり分けます。
マタイ 25:31
裁判の様子についての詳しい説明が26章1節に至るまで続いたのち、イエスは弟子たちに対する返答を終えられます。
さて、これらすべてを語り終えてから、イエスは弟子たちにこう言われた。「あなた方の知っているとおり、今から二日後には過ぎ越しが行われます。・・
マタイ 26:1,2
イエスの「この世代」発言について
そろそろ、イエスの「この世代」発言について踏み込みましょう。
この記事の冒頭で確認した通り、マタイ12章と23章においてイエスが「この世代」という言葉を使っているとき、それは一貫して書士とパリサイ人たちに代表される不従順な古代イスラエルを指していました。
そうであれば、問題となっている24章においてイエスが使っている「この世代」という言葉も、同じように不従順な古代イスラエルを指していると考えることが自然ではないでしょうか。
あなた方に真実に言いますが、これらのすべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません。
マタイ 24:34
ここで言われている「この世代」を理解するにあたり、最後に考えるべきは「これらのすべての事」とはいったい何かですが、このことは既に確認済みです。
復習も兼ねて振り返っておきましょう。
- 弟子たちからの2つの質問
【マタイ24:1~3】
- エルサレム神殿の崩壊についての説明
【マタイ24:4~22】
- キリストの臨在についての説明
【マタイ24:23~31】
- 「これらのすべての事が起こるまで、この世代は決して過ぎ去りません」
【マタイ24:32~35】
- 見張っているべきことの6つの例え
【マタイ24:36~25:30】
- キリストの裁判についての説明
【マタイ25:31~46】
以上より「これらのすべての事」とは「エルサレム神殿の崩壊」と「キリストの臨在」である事が分かります。表現を置き換えると次のようになります。
エルサレム神殿の崩壊とキリストの臨在が起こるまで、古代イスラエルは決して過ぎ去りません。
どういう意味でしょうか。読んで字のごとくです。
このことは記事の冒頭で確認済みの、ニネベの人々や南の女王が古代イスラエルと共に復活して裁かれる、という記述とも合致しています。
ニネベの人々は裁きの際にこの世代と共に立ち上がり、この世代を罪に定めるでしょう。・・南の女王は裁きの際にこの世代と共によみがえらされ、この世代を罪に定めるでしょう。
マタイ 12:41,42
この世代は過ぎ去らない=この世代は立ち上がる=この世代はよみがえる、です。
まとめると、「神殿は崩壊するけれども、古代イスラエルはキリストの臨在が起こるまで決して過ぎ去らない、つまりキリストの臨在の際には復活して裁かれる」。イエスが言わんとしていたことは大方以上のようになるかと思います。
この発言は、神殿の崩壊を心配していた、ひいてはイスラエル民族の行く末を心配していた弟子たちに対する非常に的を得た回答になっていたと言えるでしょう。
組織なしで「自分の救い」を達成することは可能か?
そもそも、組織なしで「自分の救い」を達成することは可能なのでしょうか。
ほとんどのエホバの証人たちはこの質問に対して「絶対にムリだ」と答えるでしょう。このように考えるのは以下のような理由があるからだと思います。
- 組織を任命しておられるのは神なので、組織に対する裏切りは神に対する裏切りである
- 悪い世の影響から自分を守るためには組織が供給する霊的な食物が絶対に必要である
私も以前、誰にも増して上記のように考えていたのでエホバの証人たちのこの気持ちはすごく理解できます。なので、このような考え方をあえて批判しようとは思いません。
本当に神が組織を任命し、本当に神が組織に対する忠節を求めておられるのであれば、組織なしに自分の救いを達成することは絶対にムリでしょう。組織から距離を置くことにした私は確実に滅ぼされます。
そして組織が提供する霊的な食物が救いに不可欠なのであれば、やはり組織から離れることは死を意味します。集会や大会に出席し続けなければ、将来に待っているのは滅びです。
では、ここで一旦整理してみましょう。
上記のことを踏まえると、エホバの証人たちにとって「救いの条件」とは主に次の2点が含まれるということになります。
- 組織に忠節を示すことによって神に忠節を示す
- 集会や大会に欠かさず出席して世から自分を守る
この点は、多くのエホバの証人たちの組織への熱心さや、集会や大会に出席することへの熱心さを見れば分かるでしょう。救いにつながっていると信じているからこその熱心さです。
しかしながら、私はここで本当に問いたいのですが、そもそも、聖書にはこういったことが書かれているのでしょうか。聖書にはここまで踏み込んだ内容が実際に記述されているのでしょうか。
神によって任命された新しい組織に信仰を置き、またそれに従いなさい。そうすれば、あなた方は救われるでしょう。
??? ?:?
神によって啓示を受けた新しい地上のイスラエルに忠誠を尽くしなさい。そうすれば、あなたは天に宝を蓄えるでしょう。
??? ?:?
否です。
救いの条件として聖書が教えてきたのはあくまでも以下のような事柄です。出エジプトの時代からキリストの時代まで1500年以上ものあいだ一貫してそうでした。それ以上でも、それ以下でもありません。
あなたの兄弟が貧しくなり、あなたの傍にあって財政的に弱くなる場合、あなたはこれを支えなければならない。
レビ 25:35
立場の低い者に恵みを示している人はエホバに貸しているのであり、その扱いに対して神はこれに報いてくださる。
箴言 19:17
完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう。
マタイ 19:21
自分の持ち物を売って、憐れみの施しをしなさい。自分のために、擦り切れることのない財布、決して尽きることのない宝を天に作りなさい。
ルカ 12:33
あなたがごちそうを設けるときには、貧しい人、体の不自由な人、足なえの人、盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは義人の復活の際に報いを受けるのです。
ルカ 14:13,14
イエスは主であるということを公に宣言し、神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら、あなたは救われるのです。
ローマ 10:9
わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難の時に世話すること、また自分を世から汚点のない状態を保つことです。
ヤコブ 1:27
以上のように、貧しい人たちへの善行やキリストへの信仰が救いにつながっていることを示す聖書の直接的な記述はいくらでも見つかります。
では、組織に従うことが救いにつながっていることを示す聖書の直接的な記述はどこにあるのでしょうか。あなたはそれをいくつ思い出せますか。
お気付きの通り、出エジプトの時代からキリストの時代までの1500年という聖書の歴史から言っても「組織への忠節が救い」という教えや「集まり合うことが救い」という教えは明らかに異質であり、奇妙な教えです。
出エジプトの時代からキリストの時代まで一貫して神からの是認や救いと結びつけられてきたのはもっぱら「貧しい人たちへの善行」や「弱い人たちへの憐れみ」だからです。
パリサイ人たちがイエスから「まむしらの子孫」と呼ばれたのは、彼らが貧しい人や弱い人たちへの善行を軽視し、人間的な決まりごとに執拗にこだわったからであることを、決して忘れてはいけません。
参考までに、予備校の例え
個人の努力が問われているという点において、救われるかどうかは大学受験に似ています。例えば、次のように考えている受験生のことをどう思うでしょうか。
「私は河合塾の生徒だから絶対に合格だ」
もちろん良い予備校に通うことは大変助けになるでしょうが、だからと言って「河合塾の生徒=合格」というわけではありません。合格基準はあくまでもその人の学力が高いか低いかに依存するからです。
その人がどの予備校に属していたかが考慮されることは一切ありません。このような意味で、大学受験における合格基準は完全に個人主義だと言えるでしょう。
救いに関しても同様です。どんなに組織が偉大であっても、だからと言って「組織の成員=合格」というわけではないはずです。先に確認した通り、合格基準はあくまでもその人の善行や憐れみが多いか少ないかに依存しています。
では、その人がどの組織に属していたかが評価されることは一切ないのでしょうか。少なくとも、この点については聖書は具体的かつ直接的な説明をしていません。
この辺りは組織に属するメリットとデメリットを天秤にかける必要があるでしょう。
さらに言えば、試験範囲を取り違えて指導してしまう予備校のことをどう思うでしょうか。本当は英語が試験範囲なのに、間違えてポルトガル語を熱心に教え込んでしまうような予備校です。
パリサイ人たちはこの点で失敗しました。律法の教師であったパリサイ人たちが民に教えるべきは弱い人たちへの愛や憐れみであったのに、手の洗い方や安息日の守り方という数々の人間のおきてを民に指導しました。
結果、指導を与えたパリサイ人も指導を受けたイスラエル国民も共に失敗し、共に神から退けられたのです。
彼ら(パリサイ人たち)のことはほっておきなさい。彼らは盲目の案内人なのです。それで、盲人が盲人を案内するなら、二人とも穴に落ち込むのです。
マタイ 15:14
この点、組織は大丈夫でしょうか。果たして「救いの試験範囲」を取り違えてはいないでしょうか。
少なくとも私は非常に長いあいだ組織におりましたが、自分の救いを完全にするために持ち物を売って貧しい人たちに与えるようにと組織から励まされたことは一度もありませんでした。
イエスは言われた、「完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう。
マタイ 19:21
少なくとも私は非常に長いあいだ組織におりましたが、イエスと弟子たちが貧しい人たちのために寄付箱を管理していて、たびたび貧しい人たちに寄付をしていたことについて一度も教わりませんでした。
事実、ある者たちは、ユダが金箱を保管していたので、イエスが彼に、「祭りのためにわたしたちが必要とするものを買いなさい」とか、貧しい人たちに何か与えるようにと命じておられるものと思っていた。
ヨハネ 13:29
以上のように、エホバの証人の組織は一般の貧しい人たちへの金銭的な施しについては一度たりとも教えていませんし、具体的な指導を成員に与えているわけでもありません。
それもそうでしょう。天に宝を蓄えるために貧しい人たちに寄付をするようにと成員たちに指導してしまえば、それだけ組織を運営するための寄付は集まらなくなり、これはつまり組織の死を意味するからです。
このように、イエスの教えは本質的に組織を殺します。この点を考えても、お金によって運営される組織の存在自体がイエスの教えからすれば異質であり、奇妙な教えであることが分かると思います。
メリットとデメリット
さて、今まで考えてきた事柄のすべてを踏まえたとしても組織に属することのメリットがあるにはあります。属することのメリットを確認し、さらにデメリットも確認しておきましょう。
メリット:
- 神や聖書を愛する人たちと集まり合える(ヘブライ10:25)
- ひとりと比べると宣教の業に取り組みやすい(マタイ28:20)
- キリストの信者に「コップ1杯の水」を与えられる(マタイ 10:42)
デメリット:
- 神が話していない偽りを話すことにより死罪になる可能性がある(申命記 18:20-22)
- 最後の最後にキリストに退けられ歯ぎしりする可能性がある(マタイ 7:21~23。ルカ 13:28)
たとえエホバの証人という「枠組み」にはめられているとしても、そこに集まっているのは間違いなく神を愛しキリストに信仰を置いている人々です。
パウロが言っているように、神を愛する人たちと集まり合い、聖書を学び合うことは実に心地よいことであり「ますますそう」すべきだと思います。共に宣教の業に取り組めるのも大きなメリットでしょう。
さらに、「わたしの兄弟のうち最も小さい者」にというイエスの教えの通り、会衆内で目立たずにいる研究生たちや兄弟姉妹たち、やもめや独身の姉妹たち、子供たちや若者たちに優しさや気遣いを実践できることも大きなメリットです。
ただしデメリットもあります。特に演壇から話をする兄弟たちや、研究生に聖書を教える姉妹たちはこのデメリットに注意すべきでしょう。なぜなら、それは自分の命に関わることだからです。
つまり、神の名を使って偽りを語ってしまえば、ただそれだけで死罪に問われる可能性があります。私たちは自分の口で発言したことに関しても裁かれることになっているからです。悔い改めて方向性を変える必要はあるでしょう。
さらに、キリストに奉仕していると心底考えていたとしても、最後の最後にキリストから否定されてしまう可能性があることも忘れるべきではないでしょう。
その日には、多くの者がわたしに向かって、「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名において預言し、あなたの名において悪霊たちを追い出し、あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか」と言うでしょう。
しかしその時、わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない、不法を働く者たちよ、わたしから離れ去れ、と。
マタイ 7:22,23
組織から離れるにせよ、組織を上手に活用するにせよ、自分の救いを達成できるのは「自分」しかいません。
組織との距離感は自分の事情などを踏まえながらゆっくりと慎重に決定していくのが良いと思います。
組織なしのクリスチャン人生
さて、組織なしで生きていくとして、その人のクリスチャン人生とは具体的にどのような感じになるでしょうか。集会はどうなるのでしょうか。宣べ伝える業はどうなるのでしょうか。
貧しい人たちへの善行
組織なしのクリスチャン人生において、まず第一に優先されるのは貧しい人たちや弱い人たちへの善行です。念のために言っておきますが、これは会衆内だけに限定されません。
イエスは言われた「完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう。
マタイ 19:21
わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難のときに世話すること、また自分を世から汚点のない状態に保つことです。
ヤコブ 1:27
これらの聖句を文字通り実践するためには自分のお金に余裕がないと無理でしょう。無いものを与えることはできません。心の余裕も必要だと思います。
これに、クリスチャンを名乗るにふさわしい外見や生活を維持していくための最低限の経済力も加わります。全財産を売り払ってホームレスになる必要などないことは論じるまでもありません。
つまり、クリスチャンは精力的に働き、貧しい人たちに寄付できるぐらいには一生懸命に働くべきでしょう。必要であれば自分の能力を伸ばしたり資格を取るのも良い考えだと思います。
売ることのできる「財産や能力」が多いに越したことはありません。支えることのできる「孤児ややもめ」が多いに越したことはないからです。
余分にお金があるからといって不必要に大きな家に引っ越したり、不必要に高級な車や時計を購入したりするのはクリスチャンのすることではありません。
「必要」という一線を超えたお金はすべて貧しい人や弱い人たちへの善行や慈善活動に回すのが優秀なクリスチャンのすることです。その分、天に宝を積むことができるからです。
しかしあなたは、憐れみの施しをする際、あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば、ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。
マタイ 6:3,4
このように考えてみますと、天の父は地上にいる子供たちの中でも特に貧しくて辛い思いをしている子供たちのことを気にかけていることが伺い知れます。
自分の子供たちの中でもやはり弱い子供たちを気にかけてしまうのは、神であれ人間であれ「父親」の心情のようです。
私たちは天の父を安心させ、喜ばせるべきではないでしょうか。
キリストを宣べ伝える業
宣べ伝える業に関しては、善行や慈善活動とセットでなされるのが理想的でしょう。実際、イエス・キリストの宣べ伝える業もたいていの場合は善行や慈善活動とセットでなされています。
それからイエスはガリラヤの全土をあまねく巡り、諸会堂で教え、王国の良いたよりを宣べ伝え、民の中のあらゆる疾患とあらゆる病を治された。
すると、彼の評判はシリア中に伝わり、人々は、具合の悪い者すべて、様々な疾患や苦痛に悩む者、悪霊にとりつかれてたり、てんかんであったり、まひしたりしている者を彼のところに連れてきた。それでイエスはその人々を治された。
マタイ 4:23
善行によってイエスの良い評判が広まり、群衆がイエスのもとに集まり、それからここでは山上の垂訓を開始しておられます。
マタイ書を読めばすぐに気付くと思いますが、イエス・キリストの宣教の業は病人たちや弱い人たちへの奇跡(つまり善行)と必ずと言っていいほどセットになっています。確認して下さい。
そもそも、私たちは「世にあって光」とならなければなりません。私たちの存在は神とキリストの栄光に直結しているべきです。
あなた方の光を人々の前に輝かせ、人々があなた方の立派な業を見て、天におられるあなた方の父に栄光を帰するようにしなさい。
マタイ 5:16
では質問ですが、以下のクリスチャンのうちどちらが「より」神に栄光を帰すでしょうか。
- なんの脈絡もなく他人の玄関のドアに立っていきなり「今日は聖書について・・」と語るクリスチャン
- 弱い人たちへの善行に励み知人にことあるごとに「私はクリスチャンだから・・」と語るクリスチャン
論じるまでもないでしょう。
集まり合うこと
パウロはヘブライ人たちの会衆へ次のように書きました。
ある人々が習慣にしているように、集まり合うことをやめたりせず、むしろ互いに励まし合い、その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか。
ヘブライ 10:25
エホバの証人たちは特にこの聖句を重視しています。もちろん、それは正しいことです。「盲人が盲人を案内しなければ」という条件付きではありますが。
さて、神とキリストを愛する人々と集まり合えればそれは本当に理想的なことだと思います。お互いに「盲人」でないとすれば、それは本当に励みになるでしょう。
もちろん、パウロも「それが本当に励みになるから」という理由で集まり合うことを強く勧めていたのでしょうが、同じほど大きな理由として「大規模な背教が迫っていたから」というものがありました。
パウロはテサロニケの会衆に宛てて、キリストの臨在に先立って大規模な背教があることに言及しています。
だれにも、またどんな方法によってもたぶらかされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が来て、不法の人つまり滅びの子が表し示されてからでなければ、それは来ないからです。
テサロニケ二 2:1~12
イエス・キリストも、キリストの臨在まで背教の勢力と正しいクリスチャンたちが「一緒に成長する」ということを言っています。
彼は言いました、「いや。雑草を集めるさい、小麦も一緒に根こぎにすることがあってはいけない。収穫するまで両方とも一緒に成長させておきなさい。収穫の季節になったら、わたしは刈り取る者たちに、まず雑草を集め、焼いてしまうためにそれを縛って束にし、それから、小麦をわたしの倉に集めることに掛かりなさい、と言おう」
マタイ 13:24~30
イエス・キリストの発言とパウロの発言を考えると、キリストが臨在するまでの背教の勢力は決して無視できるレベルではないことが分かります。キリスト教の暗黒の歴史を見ても実際にそうです。
さらにイエスの例えに注目してしまえば、その期間においては小麦グループと雑草グループとが「別々に成長する」というよりは、それらが「混ざって成長する」ということになるかと思います。
そうであるなら、「終わりの日」において正しいクリスチャンたちだけが一同に介して集会を開くことなど、そもそも期待できるものではないのかもしれません。
結局、キリストの裁判のときに裁かれるのは個人です。もし仮に誰か、あるいは何かのせいで自分が失敗したとしても、それを言い訳にすることは許されていません。
これはつまり、キリストの裁判のその時に「組織」はことごとく役に立たないことを意味しています。自分の救いは、自分の手で勝ち取るほかないのです。
わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つことになるのです。・・わたしたちは各々、神に対して自分の言い開きをすることになるのです。
ローマ 14:10~12
この記事が、あなたの栄光ある勝利における一助となりますように。
聖書の中には「奉仕の僕」という立場は本当は存在しない?
エホバの証人の組織の中には、長老を支える立場として「奉仕の僕」という立場があります。長老たちが牧する業に専念できるように、会衆の事務的な仕事は特に「奉仕の僕」たちが担当します。
この役割分担の根拠になっている聖句は以下です。イエスの死後、自分たちが教える業に専念するために十二使徒たちは7人の男子を任命して食物の分配に当たらせています。
兄弟たち、あなた方の中から、霊と知恵に満ちた確かな男子七人を自分たちで捜し出しなさい。わたしたちがその人たちを任命してこの必要な仕事に当たらせるためです。しかしわたしたちのほうは、祈りとみ言葉の奉仕とに専念することにします。
使徒 6:3,4
「長老」の資格をとらえるには必ず「奉仕の僕」という資格をとらえている必要があるので、「奉仕の僕」という資格は若い兄弟たちの目標として励まされたり、霊性の目安として言及されたりします。
さらに、「奉仕の僕」という資格をとらえるためには満たすべき条件があり、その条件としてテモテ第一3:8−10、12がよく引用されます。読者がクリスチャン男子なら馴染み深い聖句でしょう。
同様に、奉仕の僕たちもまじめで、二枚舌を使ったりせず、大酒にふけらず、不正な利得に貪欲でなく、・・奉仕の僕たちは一人の妻の夫であり、子供と自分の家の者たちを立派に治めているべきです。
テモテ第一 3:8~10,12
上記に挙げた2つの箇所が「奉仕の僕」という役割と、その任命に関わる聖書的な根拠となっています。
ギリシャ語では一貫して「ディアコノス=奉仕者」
実は、元々のギリシャ語聖書には役職としての「奉仕の僕」という概念はありませんでした。
エホバの証人の組織が突然、テモテ第一3章の「ディアコノウス」という表現を「奉仕の僕」という表現に翻訳し、役職としての「奉仕の僕」の概念を導入しています。
詳しく説明すると、以下のようになります。
ギリシャ語の原文では、3:8のこの部分は元々「Διακόνους(ディアコノウス)」と表記されています。3:12の方は「διάκονοι(ディアコノイ)」です。英語に翻訳する時はどちらも一貫して「Servants(奉仕者たち)」と翻訳されます。
実は「ディアコノス」という単語が出てくるのは聖書のこの部分だけではありません。イエス・キリストやパウロの発言を含め、ギリシャ語聖書のあらゆるところで「ディアコノス」という表現が使われています。
幾つか例を挙げてみましょう。
かえって、だれでもあなた方の間で偉くなりたいと思う者はあなた方の奉仕者(διάκονος)でなければならず、また、だれでもあなた方の間で第一でありたいと思う者はあなた方の奴隷でなければなりません。
マタイ 20:26
わたしは言いますが、キリストはまさに、神の真実さのために、割礼を受けた者たちの奉仕者(διάκονον)となり、こうして、神が彼らの父祖になさった約束の確かさを証拠だて、・・
ローマ 15:8
わたしはあなた方に、ケンクレアにある会衆の奉仕者(διάκονον)である、私たちの姉妹フォイベを推薦します。
ローマ 16:1
その良いたよりは天下の創造物の中で宣べ伝えられたのです。私パウロは、この良いたよりの奉仕者(διάκονος)となりました。
コロサイ 1:23
いかがでしょうか。「ディアコノス / ディアコノン」という単語はイエス・キリストにも、パウロにも、ひいてはフォイベという女性に対しても適応されているのです。
まとめると次のようになります。
- διάκονος(ディアコノス)=奉仕者【マタイ20:26】
- διάκονον(ディアコノン)=奉仕者【ローマ15:8】
- διάκονον(ディアコノン)=奉仕者【ローマ16:1】
- διάκονος(ディアコノス)=奉仕者【コロサイ1:23】
- διακόνους(ディアコノウス)=奉仕の僕【テモテ一3:8】
- διάκονοι(ディアコノイ)=奉仕の僕【テモテ一3:12】
テモテへの手紙の例の部分だけが「奉仕者」ではなく「奉仕の僕」、英語では「Ministerial servant」という独特な呼称に翻訳されていることは実に奇妙なことです。
本来であれば「奉仕の僕」という翻訳は誤りで、他の聖句と同じように単に「奉仕者」と翻訳するべきだからです。
実際に、新世界訳聖書(1985年版)の翻訳委員会も『The Kingdom Interlinear Translation of the GREEK SCRIPTURES』にて「ディアコノス」という言葉を「Ministerial servant」ではなく、一貫して「servant / servants(奉仕者)」と訳しています。
マタイ書の「ディアコノス」も、テモテへの手紙の「ディアコノウス」や「ディアコノイ」も、ローマ書の「ディアコノン」も一貫して「servant / servants(奉仕者)」という翻訳です。
エホバの証人の本家本元(つまり、新世界訳聖書翻訳委員会)がそのように翻訳しているのですから、誰も反論できないのではないでしょうか。
以上より、テモテの手紙で説明されているのは役職としての「奉仕の僕」についてではなく、単に神の「奉仕者」についてだったと言えるでしょう。
イエス・キリストは古代イスラエル人に対して「奉仕者」となりました。パウロもフォイベも良いたよりの「奉仕者」となりました。
同じように私たちも、二枚舌を使ったり、大酒にふけらないような神の「奉仕者」になるべきである、というわけです。
それにしても、聖書中に存在すらしなかった役職を神はどのようにして「聖霊によって任命」するというのでしょうか。これもまた奇妙なことです。
イエスが死ぬ直前に神に対して叫んだのは弱気になったから?
『マタイによる書』の中に、イエス・キリストが弱気になっているように見受けられる記述があります。それは、イエス・キリストが杭にかけられ、息を引き取られる直前の記述です。
第九時ごろ、イエスは大声で呼ばわって、「エリ、エリ、ラマ サバクタニ」、つまり、「わたしの神、わたしの神、なぜわたしをお見捨てになりましたか」と言われた。
マタイ 27:46
これだけを読むと確かに、イエスは杭の上で弱気になってしまい神に訴えかけている、という捉え方もできるでしょう。
あるいは組織が一貫して教えてきた通り、イエスの忠実さが本物かどうか試すために最後の最後に神が保護を取り去られたのだ、という捉え方もあります。
聖書が直接的な説明をしていない以上、どのように考えるかは個人の自由だと思います。
「よほど大きな試練だったんだろう」と考えても良いでしょうし、組織が教えている通り「エホバはイエスの忠実さを試しておられたんだろう」と考えても良いでしょう。これは個人の自由です。
しかしながらこの記述は、当時のユダヤの人々の文化や習慣を知っていると全然ちがう捉え方もできます。この捉え方ですとイエスは別に弱気になったわけでもありませんし、神がイエスの苦しみを許されたわけでもありません。
ユダヤの人々の聖書引用の文化
福音書に精通しておられる方なら、イエス・キリストが頻繁にヘブライ語聖書を引用していたことをご存知でしょう。
サタンの誘惑に対抗するためにも申命記8:3を引用しましたし、神殿の商売人を叱った時にもイザヤ56:7を引用しました。もちろん、これらはほんの一例です。
さらに、当時のユダヤの人々の文化として「聖書中の特定の範囲を引用する際には、冒頭の書き出しを引用してしまう」というものがありました。
分かりやすい例がヘブライ語聖書の書名です。「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」の元々のヘブライ語名称はそれぞれ「初めに」「名である」「呼び」「荒野で」「言葉」であり、これらは全て冒頭の書き出しがそのまま書名となっています。この点は、参照資料付き聖書の脚註を参照して下さい。
同じように、イエス・キリストが杭の上で叫んだ短い言葉も実は「聖書の引用」だった、と考えることができます。では、イエスは聖書のどこの部分を引用していたのでしょうか。
これも、新世界訳聖書の参照聖句を引けば答えが分かります。マタイ27:46の「なぜわたしをお見捨てになりましたか」の右上に小さく「ソ」と書かれており、参照聖句が詩編22:1であることが分かります。
では、詩編22:1の内容を確認してみましょう。
わたしの神、わたしの神、なぜあなたはわたしをお見捨てになったのですか。なぜわたしを救うことから、わたしが大声で叫ぶ言葉から遠く離れておられるのですか。
詩編 22:1
イエス・キリストの発言が、そっくりそのまま記述されていることが分かります。
ポイントは、イエスは詩編22:1だけを引用されたわけではなく、詩編22編の書き出しの引用をもって、詩編22編の全体を引用されているということです。
これはちょうど、創世記や出エジプト記の書き出しをもってその書名としていることと同じ理屈です。
では、詩編22編にはどのようなことが書かれているのでしょうか。勘の鋭い読者ならもうお気づきでしょう。メシアが経験する事柄に関する預言が書かれています。
詩編22編にはメシアが虫のように扱われること、あざ笑われること、衣服の上でくじが引かれることなどが記述されています。
イエスは詩編22編の全体を引用することによって預言通りのことが現に今起こっていること、つまり、自分こそが詩編で予告されていたメシアであることを宣言されていたのです。
以上のように、背景的な知識がないとイエスの発言を正しく理解することはできないでしょう。
実際、イエスの近くでその発言を聞いていた人々は「この人はエリヤを呼んでいるのだ」などとかなり的外れな勘違いをしています。これは本当に残念なことではないでしょうか。
知識が乏しいと、イエスの華々しい勝利宣言が「エリヤを呼んでいる」とか「弱気になった証拠」とか「神が保護を取り去られた」になってしまうのです。
エホバの証人の方々も早く「理解の光」が当てられるようになって、イエスの華々しい勝利宣言を正しく認識するようになって欲しいものです。
エホバの証人たちが知らない「エホバの最大のご意志」まとめ
聖書の神は私たちに対して、貧しい人たち、社会的に恵まれない人たち、苦しんでいる人たちを大切にすることを望んでいるようです。この点は古代イスラエルの時代から何も変わっていません。
残念ながら、パリサイ人たちはこの点で大失敗し、イエスから「蛇よ!まむしらの子孫よ!」と激しく糾弾されてしまいました。
パリサイ人たちは、貧しい人や障害を持つ人たちを「罪人」と呼んで見下し、神殿や会堂での務めや、手の洗い方、安息日に歩ける距離など「とても細かい部分」に執拗にこだわったからです。
このようなわけで当時、イエスはパリサイ人たちに次のように勧めました。
憐れみの施しとして、内側にあるものを与えなさい。そうすれば、見よ、あなた方に関しては他のすべてのものは清くなるのです。
ルカ 11:41
残念ながら、エホバの証人もパリサイ人と似ております。
一般の貧しい人たちや社会的弱者への寄付を励ますことなど一切なく、むしろ普通の人たちを「世の人」と呼んで見下し、集会や大会での務めや、誕生日や乾杯など「とても細かいどうでもよい部分」に執拗にこだわっているからです。
さてこの記事では、集会や大会、会衆内でのいかなる仕事よりも遥かに優先されるべき神への奉仕、つまり社会的に恵まれない人たちのために行動すること、について聖書の中で説明されている部分をリストアップしておきたいと思います。
イエスがパリサイ人たちに対して「これらこそ行う務めがありました」と言っていた部分です。
(エホバの証人たちが「これら」を知らないのは非常に残念なことですね)
創世記から啓示までに登場する聖句のごく一部ですが、リストアップしていきます。お時間が厳しい方は、一番最後の「まとめ」の部分だけでもお読み頂ければと思います。
神の最大のご意志リスト
あなたの兄弟が貧しくなり、あなたの傍にあって財政的に弱くなる場合、あなたはこれを支えなければならない。
レビ 25:35
立場の低い者や父なし子のために裁きを行う者となれ。苦しんでいる者や資力の乏しい者に公正を行なえ。
立場の低い者や貧しい者を逃れさせ、邪悪な者たちの手から彼らを救い出せ。
詩篇 82:3,4
資力の乏しい者をあざ笑っている者はその造り主をそしったのである。
箴言 17:5
立場の低い者に恵みを示している人はエホバに貸しているのであり、その扱いに対して神はこれに報いてくださる。
箴言 19:17
あなたの口を開き、正しく裁き、苦しんでいる者や貧しい者の言い分を弁護せよ。
箴言 31:9
地の人よ、何が善いことかを神はあなたにお告げになった。・・ただ公正を行い、親切を愛し、慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか。
ミカ 6:8
誰も二人の主人に奴隷として仕えることはできません。・・あなた方は神と富とに奴隷として仕えることはできません。
マタイ 6:24
人が語るすべての無益なことば、それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。
マタイ 12:36
人の子は、自分の使いたちを伴って父の栄光のうちに到来することに定まっており、その時、各々にその振る舞いに応じて返報するのです。
マタイ 16:27
「師よ、永遠の命を得るために、わたしはどんな善いことを行わなければならないでしょうか。」「・・完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう」
マタイ 19:16~21
彼らは、やもめたちの家を食い荒らし、見せかけのために長い祈りをするものたちです。こうしたものたちはより重い裁きを受けるでしょう。
マルコ 12:38~40
「この香油なら三百デナリ以上で売れたし、そうすれば貧しい人たちに施すこともできたのに!」「あなた方はいつでも望む時に彼らに善を行えます」
マルコ 14:5,7
あなた方の敵を愛しつづけ、善を行いつづけ、何か返してもらうことなど期待せずに利息なしで貸すことを続けてゆきなさい。そうすれば、あなた方の報いは大きく、あなた方は至高者の子となるのです。
ルカ 6:35,36
裁くのをやめなさい。そうすれば、あなた方が裁かれることは決してないでしょう。・・いつも放免しなさい。そうすれば、あなた方も放免されるでしょう。
ルカ 6:37
自分の持ち物を売って、憐れみの施しをしなさい。自分のために、すり切れることのない財布、決して尽きることのない宝を天に作りなさい。
ルカ 12:33
あなた方がごちそうを設けるときには、貧しい人、体の不自由な人、足なえの人、盲目の人などを招きなさい。・・彼らにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは義人の復活の際に報いを受けるのです。
ルカ 14:13,14
ザアカイは立ち上がって主に言った、「ご覧ください、主よ、わたしは持ち物の半分を貧しい人々に与えています」。イエスは彼に言われた、「この日に救いはこの家に来ました」
ルカ 19:8,9
わたしのおきてを持ってそれを守り行う人、その人はわたしを愛する人です。さらに、わたしを愛する人はわたしの父に愛されます。
ヨハネ 14:21
イエスは主であるということを公に宣言し、神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら、あなたは救われるのです。
ローマ 10:9
あなたはなぜ自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ自分の兄弟を見下げたりするのですか。わたしたちは皆、神の裁きの座の前に立つことになるのです。
ローマ 14:10
あなた方は、不義の者が神の王国を受け継がないことを知らないとでも言うのですか。・・淫行の者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、不自然な目的のために囲われた男、男どうしで寝る者、盗む者、貪欲な者、大酒飲み、ののしる者、ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がないのです。
コリ一 6:9,10
律法全体は一つの言葉、すなわち、「あなた方は隣人を自分自身のように愛さねばならない」の中に全うされているからです。・・互いによって滅し尽くされてしまうことのないよう気をつけなさい。
ガラテア 5:14,15
肉の業は明らかです。それは、淫行、汚れ、淫らな行い、偶像礼拝、心霊術の行い、敵意、闘争、妬み、激発的な怒り、口論、分裂、分派、・・です。そのような事を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。
ガラテア 5:19~21
あなた方兄弟たちの霊と魂と体があらゆる点で健全に保たれ、わたしたちの主イエス・キリストの臨在の際にとがめのないものでありますように。
テサロニケ一 5:23
その際イエスは、神を知らない者と、わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復をするのです。
テサロニケ二 1:7,8
わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで、汚点のない、またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行いなさい。
テモテ一 6:14
そして、善を行い、立派な業に富み、惜しみなく施し、進んで分け合い、自分のため、将来に対する立派な土台を安全に蓄え、こうして真の命をしっかりととらえるようにと。
テモテ一 6:18,19
わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難の時に世話すること、また自分を世から汚点のない状態に保つことです。
ヤコブ 1:27
憐れみを実践しない人は、憐れみを示されることなく自分の裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します。
ヤコブ 2:13
思いやりを示し合い、兄弟の愛情を抱き、優しい同情心に富み、謙遜な思いを抱きなさい。危害に危害、罵りに罵りを返すことなく、かえって祝福を与えなさい。あなた方はそうした道に召されたからです。それはあなた方が祝福を受け継ぐためなのです。
ペテロ一 3:8,9
最終的に汚点も傷もない、安らかな者として見出されるように力を尽くして励みなさい。
ペテロ二 3:14
誰であろうと、生活を支えるこの世の資力があるのに、自分の兄弟が窮乏しているのを見ながら、その兄弟に向かって優しい同情心の扉を閉じるなら、その人にはどのようにして神の愛がとどまっているでしょうか。子供らよ、言葉や舌によらず、行いと真実とをもって愛そうではありませんか。
ヨハネ一 3:17,18
これが神のおきてです。すなわち、私たちがそのみ子イエス・キリストの名に信仰を持ち、彼が私たちにおきてを与えた通り、互いに愛し合うことです。
ヨハネ一 3:23
そのおきてを守り行うこと、これがすなわち神への愛だからです。
ヨハネ一 5:2,3
だいたい、以上のようになっております。
「・・え、集会は?」「奉仕は?」「バプテスマは?」「組織への寄付は?」と、疑問に思われるでしょうか。
確かにパウロは「集まり合うように」と述べ、イエスも「宣べ伝え、バプテスマを施しなさい」と言っています。
しかしながら「集まり合えば永遠の命を受け継ぐ」とか「奉仕時間を記録しなさい。そうすれば神の王国を受け継ぐ」と言った聖句は1つもありません。
むしろ「貧しい人に与えなさい。そうすれば永遠の命を受け継ぐ」とか「分け与えなさい。そうすれば裁きの時に有利になる」と言った聖句が非常に多く目立ちます。
つまりエホバの証人は、さほど大切ではない1を100へ、本当は大切な100を1(あるいはゼロ)へとねじ曲げています。
この点は上記のリストでも確認できると思います。
まとめ
- 人として「清く、正しく、美しく」あること
- 困っている人や社会的に恵まれない人たちの為に行動すること
これらこそ、聖書の神が本当に望んでいることのようです。
それにしても、(普通の人であれば)これらの励ましを否定する人などいないのではないでしょうか。
むしろ聖書に関係なく、上記のような「善い人間」になることは全ての人にとっての理想、人としての目標ではないでしょうか。
だからこそイエスは「わたしの荷は軽い」つまり「キリスト教は別に難しい事を求めているわけではない」と言っているわけです。
従順でない子供はムチ、誕生日を祝わない、乾杯をしない、集会は休んではいけない、奉仕時間を毎月報告すべき・・。
聖書の教えは素晴らしい一方で、エホバの証人の教えは 謎 ですね。
という事で、存在しているようで実は信者たちの妄想でしかないJWのことは放っておいて、素晴らしい人間になる為に日々前進して参りましょう!w
4章. エホバの証人の先へ
本章が、最後の章です。
とても楽しい聖書考察の旅でしたね。最終章へと踏み込む前に、ざっと今までの章で考察したことを復習しておきましょうか。
1章. 聖書の基本
- 聖書はもともとユダヤ教の聖典
- 聖書はもともと3部構成(T-N-K)
- イエスや弟子たちもこの区分を利用した
- イエスや弟子たちはもともとユダヤ教徒
- 「聖書」とは基本的にタナハのこと
- 「新約聖書」とは当時の手紙の厳選集
2章. 聖書の核心
- 現在、神は人類に対する支配権を持っていない
- 神の願いは昔から「祭司の王国」が完成すること
- 将来の「主の審判」では全人類がひとりひとり裁かれる
第3章:エホバの証人の弱点
- エホバの証人最大の弱点は「聖書の核心を外しており、かつ幸せである」こと
- エホバの証人が持つ独特な聖書研究の手法がその弱点に拍車をかけてしまうこと
- 極め付けとして、初代会長がオカルト的な背教者であり反キリストであったこと
エホバの証人の先へ
さて、このブログの最後に、エホバの証人の組織を超えた先に広がっている自由ながらも責任のある世界について考えようと思います。
お気付きの通り、エホバの証人の組織を越えることは単なる始まりに過ぎません。
私はこのブログの冒頭で、あなたがエホバの証人とその組織を超越してしまうことをお約束し、あなたは実際にものの数時間でエホバの証人たちを超越する存在となりました。
おめでとうございます。
そしてエホバの証人を超えた先に広がっている世界、それは自由と責任の世界です。
自由な世界に関して言えば、それは人間的かつ無意味な慣習からの自由が挙げられるでしょう。
聖書のことを誤解している敬虔なクリスチャンも多く、聖書的にはさほど重要ではない慣習を重んじていたり、エホバの証人みたいに明らかな偽りに縛られて生きるキリスト信者も多くいます。
しかし、聖書の核心を知ってしまえば神が我々に求めておられることは非常にシンプルです。
イスラエルよ、あなたの神エホバが求めておられることは、あなたの神エホバを恐れてそのすべての道を歩み、神を愛し、心をつくし魂をつくしてあなたの神エホバに仕えること、わたしが今日命じるエホバのおきてと法令をあなたの益のために守ること、ただそれだけではないか。
申命 10:12,13
労苦し、荷を負っている人よ、わたしのところに来なさい。そうすれば、わたしがあなたをさわやかにしてあげましょう。・・・わたしのくびきは心地よく、わたしの荷は軽いのです。
マタイ 11:28~30
つまり本来、キリスト教 (ユダヤ教) とはシンプルなのです。
数少ない要求事項は有益なものばかりで、それ以外の事柄に関しては全て個人の自由。
これって魅力的じゃないですか?
さて、
責任の世界に関して言えば、それは当然ながら祭司の王国、つまり神の調停委員会の招集に応じるという責任です。
アブラハムの血を引いていること
- 調停人として優良な資格を満たしていること
第2章で確認した通り、神の調停委員会は資格を満たす人員をずっと古代から募集中です。
それは古代イスラエル国民たちの大失態のせいで、そして悪魔と堕天使たちの盛大な悪あがきのせいで未だ十分に集まっておりません。
パウロが「神の休みに入るという約束は残されている」とヘブライ人に発言した西暦1世紀から状況は変わらず、21世紀においてもまだ「神の休みに入るという約束は残されて」います。
この祭司の王国こそが、古代イスラエルの時代から現代に至るまで一貫して神が欲しておられる調停機関であり、苦しみと悲しみで溢れる悪魔のこの世界に終止符を打つ人類唯一の突破口なのです。
そしてこの招待は、キリストの復活を信じ、キリストを自分の主人だと認識している世界中のクリスチャン全てに平等に差し伸べられているのです。
もしあなたが、少しでも聖書に対して真摯に取り組もうと考えているとすれば、祭司の王国への招待は間違いなくあなたにも差し伸べられています。
あなたはそれを受けますか?
であれば是非、私のこの話の真偽をもう一度ご自身でリサーチしてみて下さい。
是非、人生の早いタイミングでじっくりと聖書を調べ直してみて下さい。
聖書の世界観を前提とすれば、キリストはご自身の白い馬を駆って地上にやって来ます。キリスト曰く「それが遅れることはない」とのこと。
聖書の世界観を前提とすれば、私たちがキリストの再臨を目撃する瞬間は近いでしょう。
補足①:ちなみに死後なら確実です。すべての人間は主の裁判を受けるために強制的に復活させられることになっているからです。
補足②:確率論と期待値の観点から考えればキリスト教的な生き方を実践することはとても合理的な選択です。なぜならキリスト教の荷は軽く、それに対する対価は永遠だからです。私はパスカルの賭けには賛成です。
主の審判での評価基準
さて、将来のキリストの裁判に真剣に取り組みたいと考える親愛なる読者のために、旧約と新約の中で主の裁判の文脈に伴って記述されている評価基準を、ここに列挙しておきます。
これは同時に、神の調停委員会にて調停人となるための要求資格でもあります。
以下の内容を見るとどうやら、我々はまず善良な人間になることが求められているようですね。
以下に挙げるものは私が旧約と新約の中で発見できたものに限られております。
読者はぜひご自身でその全てを探し出し、将来のキリストの裁判に備えて下さい。
また、あなたの兄弟が貧しくなり、あなたの傍にあって財政的に弱くなる場合、あなたはこれを支えなければならない。
レビ 25:35
立場の低い者に恵みを示している人はエホバに貸しているのであり、その扱いに対して神はこれに報いてくださる。
箴言 19:17
地の人よ、何が善いことかを神はあなたにお告げになった。そして、エホバがあなたに求めておられることは、ただ公正を行い、親切を愛し、慎みをもってあなたの神と共に歩むことではないか。
ミカ 6:8
あなた方は神と富とに奴隷として仕えることはできません。
マタイ 6:24
あなた方に言いますが、人が語る全ての無益なことば、それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。あなたは自分の言葉によって義と宣せられ、また自分の言葉によって有罪とされるのです。
マタイ 12:36,37
人の子は、自分の使いたちを伴って父の栄光のうちに到来することに定まっており、その時、各々その振る舞いに応じて返報するのです。
マタイ 16:27
「師よ、永遠の命を得るために、わたしはどんな善いことを行わなければならないでしょうか」。イエスは彼に言われた、「・・・完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう。
マタイ 19:16~21; マルコ 10:17~21; ルカ 18:18~22
書士たちに気を付けなさい。彼らは長い衣を着て歩き回ることを望み、市の立つ広場でのあいさつと、食堂の正面の座席、そして晩さんでは特に目立つ場所を望みます。
彼らは、やもめたちの家を食い荒らし、見せかけのために長い祈りをする者たちです。こうした者たちはより重い裁きを受けるでしょう。
マルコ 12:38~40
あなた方の敵を愛しつづけ、善を行いつづけ、何かを返してもらうことなど期待せずに利息なしで貸すことを続けて行きなさい。そうすれば、あなた方の報いは大きく、あなた方は至高者の子となるのです。
・・あなた方の父が憐れみ深いように、あなた方も常に憐れみ深くなりなさい。また、裁くのをやめなさい。そうすれば、あなた方が裁かれることは決してないでしょう。
・・いつも放免しなさい。そうすれば、あなた方も放免されるでしょう。
ルカ 6:35~37
自分の持ち物を売って、憐れみの施しをしなさい。自分のために、すり切れることのない財布、決して尽きることのない宝を天に作りなさい。
ルカ 12:33
あなたがごちそうを設けるときには、貧しい人、体の不自由な人、足なえの人、盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは義人の復活の際に報いを受けるのです。
ルカ 14:13,14
ザアカイは立ち上がって主に言った、「ご覧ください、主よ、わたしは持ち物の半分を貧しい人々に与えていますし、何でも言いがかりをつけて人からゆすり取ったものは、四倍にして元に返しています」
ルカ 19:8-10
きわめて真実にあなた方に言いますが、だれでもわたしの言葉を守り行うなら、その人は決して死を見ることがありません。
ヨハネ 8:51
わたしのおきてを持ってそれを守り行う人、その人はわたしを愛する人です。さらに、わたしを愛する人はわたしの父に愛されます。そしてわたしはその人を愛して、自分をはっきり示します。
ヨハネ 14:21
つまり、イエスは主であるということを公に宣言し、神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら、あなたは救われるのです。
ローマ 10:9
それなのに、あなたはなぜ自分の兄弟を裁くのですか。また、なぜ自分の兄弟を見下げたりするのですか。わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つことになるのです。
ローマ 14:10
あなた方は、不義の者が神の王国を受け継がないことを知らないとでもいうのですか。惑わされてはなりません。
淫行の者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、不自然な目的のために囲われた男、男どうしで寝る者、盗む者、貪欲な者、大酒飲み、ののしる者、ゆすり取る者はいずれも神の王国を受け継がないのです。
コリント一 6:9,10
律法全体は一つのことば、すなわち「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」の中に全うされているからです。
それなのに、もしあなた方がかみ合ったり食い合ったりすることを続けているのであれば、互いによって滅し尽くされてしまうことのないよう気をつけなさい。
ガラテア 5:14,15
さて、肉の業は明らかです。それは、淫行、汚れ、みだらな行い、偶像礼拝、心霊術の行い、敵意、闘争、ねたみ、激発的な怒り、口論、分裂、分派、そねみ、酔酒、浮かれ騒ぎ、およびこれに類する事柄です。
こうした事柄についてわたしはあなた方にあらかじめ警告しましたが、なおまた警告しておきます。そのような事柄を習わしにする者が神の王国を受け継ぐことはありません。
ガラテア 5:19~21
聖なる民にふさわしく、あなた方の間では、淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません。また、恥ずべき行い、愚かな話、卑わいな冗談など、ふさわしくない事柄があってもなりません。
むしろ感謝をささげなさい。あなた方はこのことを知っており、自分でも認めているのです。すなわち、淫行の者、汚れた者、貪欲な者は、これらはつまり偶像礼拝者ですが、キリストの、そして神の王国に何の相続財産もありません。
エフェソス 5:3~5
そして、あなた方兄弟たちの霊と魂と体があらゆる点で健全に保たれ、わたしたちの主イエス・キリストの臨在の際にとがめのないものでありますように。
テサロニケ一 5:23
一方患難を忍ぶあなた方には、主イエスがその強力なみ使いたちを伴い、燃える火のうちに天から表わし示される時、わたしたちと共に安らぎをもって報いることこそ、神にとって義にかなったことであると言えるからです。
その際イエスは、神を知らない者と、わたしたちの主イエスについての良いたよりに従わない者に報復するのです。
テサロニケ二 1:7,8
わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで、汚点のない、またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行いなさい。
テモテ一 6:14
今の事物の体制で富んでいる人たちに命じなさい。高慢になることなく、また、不確かな富にではなく、わたしたちの楽しみのためにすべてのものを豊かに与えてくださる神に希望を託すように。
そして、善を行い、立派な業に富み、惜しみなく施し、進んで分け合い、自分のために将来に対するりっぱな土台を安全に蓄え、こうして真の命をしっかりとらえるようにと。
テモテ一 6:17~19
わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難の時に世話すること、また自分を世から汚点のない状態に保つことです。
ヤコブ 1:27
憐れみを実践しない人は、憐れみを示されることなく自分の裁きを受けるのです。憐れみは裁きに打ち勝って歓喜します。
ヤコブ 2:13
最後に、あなたがたはみな同じ思いを持ち、思いやりを示し合い、兄弟の愛情を抱き、優しい同情心に富み、謙遜な思いを抱きなさい。
危害に危害、ののしりにののしりを返すことなく、かえって祝福を与えなさい。あなた方はそうした道に召されたからです。それはあなた方が祝福を受け継ぐためなのです。
ペテロ一 3:8,9
それゆえ、愛する者たちよ、あなた方はこれらのものを待ち望んでいるのですから、最終的に汚点もきずもない、安らかな者として見いだされるよう力を尽くして励みなさい。
ペテロ二 3:14
しかし、だれであろうと、生活を支えるこの世の資力があるのに、自分の兄弟が窮乏しているのを見ながら、その兄弟に向かって優しい同情の扉を閉じるなら、その人にはどうして神の愛がとどまっているでしょうか。
子供らよ、言葉や舌によらず、行いと真実とをもって愛そうではありませんか。
ヨハネ一 3:17,18
実際、これが神のおきてです。すなわち、わたしたちがそのみ子イエス・キリストの名に信仰を持ち、彼がわたしたちにおきてを与えたとおり、互いに愛し合うことです。
・・そのおきてを守り行うこと、これがすなわち神への愛だからです。
ヨハネ一 3:23, 5:3
しかし、臆病な者、信仰のない者、不遜で嫌悪すべき者、殺人をする者、淫行の者、心霊術を行う者、偶像を礼拝する者、またすべての偽り者については、その分は火と硫黄で燃える湖の中にあるであろう。これは第二の死を表している。
啓示 21:8
私がお伝えしたいことは以上です。
とても短い時間でしたね。
しかし、ここまで読み進めて来られたあなたは間違いなく世界中にいる800万以上のエホバの証人たちの誰よりも聖書に詳しい状態、彼らを超越した存在になっていると思います。
ですからどうぞ、
エホバの証人のその先の世界へ、大きな自由と責任が広がる次の次元へとお進み下さい。
最後の結論
では最後に、私なりに本ブログの結論をまとめておきましょうか。
最後の結論、それは、
自分の時間、能力、財産をもっぱら貧しい人たちのため、社会的に恵まれない人たちを助けるために使うこと。
そのようにしてキリストの再臨、あるいは自分の死を待ち続けること。
聖書の世界観を前提とすれば、これが人間のなし得る 最善の生き方 です。
すべてのことが聞かれたいま、事の結論はこうである。まことの神を恐れ、そのおきてを守れ。それが人の務めのすべてだからである。
まことの神はあらゆる業をすべての隠された事柄に関連して、それが善いか悪いかを裁かれるからである。
伝道 12:13,14
「しかり、わたしは速やかに来る」。アーメン!主イエスよ、来てください。
主イエス・キリストの過分のご親切が聖なる者たちと共にありますように。
啓示 22:20,21
自室にて
yoo
執筆:2014/06/10
改訂:2024/02/20
*何かあれば私が管理するXアカウント『宗教2世問題まとめ』まで。
3章. エホバの証人の弱点
前章ではギリシャ語聖書から36もの聖句を引用し、文字通り全ての聖書筆者たちが以下の教えを繰り返していることを確認しました。
- 臨在:イエス・キリストは目に見える状態で地上に降りてくる
- 裁き:イエス・キリストは人類すべてをひとりひとり裁判にかける
この2点は聖書の核心を成しており、キリスト教会の教義としても非常に一般的なものです。
実際、西方のカトリック教会も、東方の正教会も、プロテスタント教会の信者たちもそう信じています。つまり、この教義はキリスト教全体の教えとして広く共有されているわけです。
ウィキペディアの「再臨」にも、この点についての説明があったので引用しておきます。
キリスト教の信仰:
キリスト教会には再臨について信仰が存在する。それは、主イエス・キリストが再臨し、世を裁き、神の国を確立するという信仰である(救い主の預言の成就)。
キリスト教会の信条であるニカイア・コンスタンティノポリス信条は、「主は、生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。」「光栄を顕して生ける者と死せし者とを審判する為に還た来り、その国、終りなからんを」と告白する。
また西方の使徒信条は「主はかしこより来たりて、生ける者と死ねる者を裁きたまわん」と告白する。
Wikipedia「再臨」
しかし一方で、エホバの証人たちはこの点を受け入れません。むしろ知りません。
何年、いや何十年と集会や大会に出席したところで、この点に気付くことはないでしょう。
ではエホバの証人たちは一体どんなことを教わっているのでしょうか。彼らが集会や大会で学んでいる内容とは一体どんな内容なのでしょうか。
主の審判にスポットライトを当てるとすれば、エホバの証人は以下のように教わります。
- 臨在:
キリストは1914年に目に見えない状態で臨在しており地上に代表者を任命している
- 裁き:
自分たちはキリストに裁かれない。裁かれるのはエホバの証人ではない世の人だけ
非常に不可解な内容ですね。
しかしエホバの証人にとってはとても馴染み深い教えだと思います。
しかも、エホバの証人たちはこの教えを聖書の核心的な教えとして固く信じているのです。
しかし前章で確認したように、祭司が世界中から集められている今、神はわざわざ地上に何かを必要としておりませんし、ましてやキリストも自分の代理など任命しておりません。
主の審判で人類すべてが裁かれる点に至っては、聖書の至る所で散見される聖書の基本的なテーマです。
これも前章で確認した通りですね。
エホバの証人の弱点について
さてここからが本題ですが、エホバの証人たちがあれほど聖書を研究しながら、こんなにも聖書とは別次元な世界を生きているのはなぜでしょうか。
聖書をあれほど深く愛し、聖書をあれほど固く信じているというのに。
エホバの証人たちの聖書への愛には凄まじいものがあるでしょう。彼らは聖書を足で踏むくらいなら間違いなく死を選びます。
エホバの証人たちの聖書への信仰は高い評価に値します。彼らはその信仰のために人生の大半を文字通り捧げているのです。
にも関わらず、彼らは決して前に進まないハムスターになっている。そして聖書とは全く別世界を生きている。
この原因は一体なんでしょうか?
聖書の核心を外しており、かつ幸せである。
彼らが聖書とは別世界を生きている最も大きな原因は、これに尽きるでしょう。
つまり彼らは聖書の核心から遠い場所に安息の地を見つけ、そして幸せなのです。
集会や大会で聖書の核心を教えられることもない。本部の統治体も教えてくれない。会衆のベテラン長老も巡回監督たちも教えてくれない。というか彼らも知らない。
それでも彼らは深く満足している。
だからエホバの証人たちは決して前に進むことのないハムスターになってしまい、聖書の核心とは全く別の場所にある「幸せな回し車」の中で懸命に走ってしまうのです。
「僕たちはこんなに一生懸命走っている!」「私たちのこの努力は神に祝福される!」
確かに、彼らは幸せな民族ですね。
彼らの独特な研究手法3選
では具体的に、彼らがどのように聖書の核心を外しているのか、その独特な研究手法を見ていきましょうか。
きっと色々あるのでしょうが、今回は3つほど選んでみました。
例えば、次のような文章が『ものみの塔』誌に載ります。
当時、一つの聖書研究者のグループが、一般的な考えとは違い、キリストの帰還は目に見えないということを識別しました。
イエスは天で即位した後、王として地上に注意を向けるという意味で帰還します。
弟子たちは、目に見えないイエスの臨在が始まったことを、目に見える複合のしるしによって知るのです。ーマタイ 24:3-14
ものみの塔 2005年1月15日号 p15
前章で確認した「キリストの臨在は目に見える」とは真逆の内容が書かれています。
しかし当然ですが「臨在は目に見えない」なんて事は聖書のどこにも書いてません。
さてどう致しましょうか?
ここでエホバの証人たちは彼ら独自の聖書研究の手法を編み出してしまったようです。自分たちの「幸せな回し車」を機能させるために。
この独特な手法により、彼らは聖書の核心を見事に外しつつ、と同時に、聖書から深い満足感を得ることができるようになりました。
① 隅っこ全体手法
ものみの塔の文章の隅っこに聖句の引用が発見されると、それ以前の文章、あるいはそれを含む文章がすべて聖書の教えになってしまうという手法、これが隅っこ全体手法です。
この手法は特に、分厚い聖書を読むのが面倒だと思っているナマケモノ信者たちにピッタリな研究手法だと言えるでしょう。
何と言っても楽なのです。
先ほど挙げた「キリストの帰還は目に見えない」というものみの塔の記事にもこの手法が見事に使われております。
長い説明文の隅っこに「マタイ 24:3-14」という表記が見られますね。
・・目に見えないイエスの臨在が始まったことを、目に見える複合のしるしによって知るのです。ーマタイ 24:3-14(←これ)
ものみの塔 2005年1月15日号 p15
すると、なんということでしょう。
とても薄っぺらい『ものみの塔誌』が世界的な権威を放つあの『聖書』に早変わりです。
そして「キリストの帰還は目に見えない」という間違った教えが自動的に聖書全体の教えになってしまいます。
奇跡ですね笑。
② つまみ食い全体手法
同じような手法としてつまみ食い全体手法もあります。
この手法を使えば、聖句を1つ食べただけで、あたかも聖書全体を食べ切ってしまったかのような深い満足感に浸ることができます。
つまみ食い全体手法が利用されている代表的な聖句は間違いなく次の聖句でしょう。
主人が、時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため、彼らの上に任命した、忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。
主人が到着して、そうしているところを見るならば、その奴隷は幸いです。あなた方に真実に言いますが、主人は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。
マタイ 24:45~47
アメリカの統治体たちがキリストから特別な任命を受けている根拠としてこの聖句がよく利用されますが、この聖句こそつまみ食い全体手法の申し子です。
なぜなら、この聖句たった1つで統治体はキリストのすべての持ち物を任されていることが聖書全体の教えになってしまうのですから。
しかし試しに、つまみ食い全体手法を使わないでこの聖句を読んでみましょうか。読むべき文章は増えてしまいますが、しっかり文章を読むことが聖書研究の基本です。
それゆえ、ずっと見張っていなさい。あなた方は、自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。家あるじは、盗人がどの見張り時に来るかを知っていたなら、目を覚ましていて、自分の家に押し入られるようなことを許さなかったでしょう。このゆえに、あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです。
主人が、時に応じてその召使いたちに食物を与えるため、彼らの上に任命した、忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。
主人が到着して、そうしているところを見るならば、その奴隷は幸いです。あなた方に真実に言いますが、主人は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。
しかし、もしそのよこしまな奴隷が、心の中で、「わたしの主人は遅れている」と言い、仲間の奴隷たちをたたき始め、のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば、その奴隷の主人は、彼の予期していない日、彼の知らない時刻に来て、最も厳しく彼を罰し、その受け分を偽預言者たちと共にならせるでしょう。そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。
マタイ 24:42~51
いかがでしょうか?
この聖句が言いたいのは本当に「イエス・キリストは統治体を任命したから統治体に従いなさい」ということなのでしょうか?
いや、この聖句が言いたいのは「イエス・キリストの臨在はいつか分からないから目覚めていなさい」ということではありませんか?
ところが、ほとんどのエホバの証人はイエスの話を最後まで聞きません。
彼らは早々につまみ食いを終えると、聖書をパタンと閉じてどこかへ行ってしまうのです。たぶん集会か奉仕でしょう。
ちなみに、上に挙げた「思慮深い奴隷とよこしまな奴隷」の話はマタイ24章36節から25章30節にまでまたがっている7つの例え話のうちの1つに過ぎません。
この7つある例え話の趣旨は「臨在までずっと見張っている」ことです。エホバの証人たちはたった7つのイエスの例え話さえも聞くに耐えないのでしょうね。
聞くことに遅すぎます。
スーパーの試食コーナーで主婦たちが試食をしている様子を想像して下さい。小さな爪楊枝で、小さな試食をつついている光景が目に浮かぶでしょうか。
エホバの証人の集会も同じです。
彼らがやっているのは聖句のつまみ食いです。
③ 聖書バラバラ手法
聖書の核心を外すため、エホバの証人が好んで使う研究手法の極め付けは聖書バラバラ手法です。
これは聖書をバラバラに分解して研究するという、なんとも薄気味悪い研究手法です。
どんなに長年聖書研究に打ち込むとしても、聖書をバラバラに分解して研究するならその人は聖書を正しく理解することなど不可能でしょう。
例えば、考えてみて下さい。
『美女と野獣』といった2時間程度の映画を1日4分ずつ、1ヶ月かけて鑑賞したいなどと誰が思うでしょうか。そんな鑑賞の仕方で映画の全体像やメッセージを的確に理解できるでしょうか。
いや、無理です。
そんな滅茶苦茶な鑑賞のやり方をしては映画の全体像やメッセージなど理解できるわけがありません。2時間の映画を一気に観てしまうからこそ映画の全体像やメッセージが理解できるのです。
あるいは、次の場合はいかがでしょうか。
2時間の映画を120の断片にバラバラに区切って、その小さな断片を流れに関係なくバラバラに鑑賞するのです。『美女と野獣』をそのように鑑賞したらどうなるでしょう。
断片的かつバラバラに映画の断片を観たとすれば、それは「映画を観た」というよりは「シーンを見た」だけに過ぎません。
最初から最後まで一気に観て初めて「私はあの映画を観た」と言えるのです。
こんなの常識だと思います。
そしてお気付きの通り、エホバの証人たちは上記に述べたことを「聖書」に対して行います。
いえむしろ、彼らは聖書をバラバラにして研究をするのが大好きなのです。
しかしながら、全体像やメッセージを正しく理解したいのであれば適切なスピードが必要であり、これは映画鑑賞も聖書研究も同じです。
悲しいことに多くのエホバの証人たちは聖書の中の書、例えば『創世記』や『マタイ書』などを詩集や俳句集のように扱います。
しかし、創世記やマタイ書は「詩集」や「俳句集」ではありません。
それらは1つの映画であり1つの物語です。
それらにはそれぞれの流れがあり、本来、バラバラにして研究すべきではありません。
バラバラに分断された聖書の起源
ちなみに、多くのエホバの証人たちが聖書をバラバラに研究してしまうのは、彼らがバラバラに分断しやすい聖書を使っているからです。
つまり、彼らは章と節で分割された聖書を使っています。
そして章と節で分割された聖書とは本来の姿の聖書ではなく、これがまた、つまみ食いしやすい聖書なのです。
そもそも聖書に章と節といった数字による区切りが挿入されたのは割と最近です。
それ以前の聖書には当然ながら、章や節といった数字による区切りはありませんでした。
ですから、イエスや弟子たちは数字によって区切られていないモーセ五書を使っていましたし、パウロやテモテといった初期クリスチャンたちも同様でした。
新約聖書に至っては、それらがもともと手紙だったことを考えれば、数字による区切りは明らかに後付けであることは想像にたやすいことでしょう。
では、いつから聖書は章と節によって分割されたのでしょうか。
旧約聖書に関しては、イギリスの聖職者スティーブン・ラングトンが13世紀初頭に分割を行いました。
新約聖書を分割したのは、16世紀半ばのフランスの印刷業者ロベール・エティエンヌです。
もちろん彼らは読みやすさ、そして分厚い聖書の開きやすさといった便宜のために聖書を章と節に分割したのでしょう。
しかし、章と節による分割によって聖書学習者たちが気軽につまみ食いしてしまう弊害、聖書をバラバラに研究してしまう弊害を考えると手放しで喜ぶことはできません。
便利だからといって必ずしもそれが正解とは限らないのです。
このように考えると、
聖書を分断して研究してしまうエホバの証人も、実は単なる歴史の被害者なのかもしれません。
エホバの証人に限らず聖書を分断してしまう傾向は、キリスト教会のあちこちで目撃されている聖書研究のワンシーンだからです。
しかしながら、このような歴史的な慣習に毒されていない人たち、本来の姿のままの聖書を今でも使っている人たちがいます。
それはユダヤ教徒たちです。
実際、ユダヤ教徒たちは現代でも章と節によって分割されていない本来の姿の聖書を中心に置いて聖書を勉強しています。
単なる数字とは言え、もともと聖書になかったものを加えることなど聖書を「王」のごとく崇める彼らの間では決して許されないのです。
このようなわけで、ユダヤ教徒たちは今でも自分たちの中心に本来の姿の聖書を置き、子供たちも数字で分割されていない聖書を使って朗読しております。
この点に関して言えば、私はキリスト教で普及している聖書よりもユダヤ教で普及している聖書の方が本来の姿をとどめていると思います。
ちなみに、古典ユダヤ教について学ぶことは聖書の世界観を押し広げるのに大いに役立ちます。
聖書にとって古典ユダヤ教は実家だからです。
エホバの証人の初代会長は背教者
さて、第3章「エホバの証人の弱点」の最後を飾るおまけとして、この決して小さくはない弱点にも軽く触れておきましょう。
この弱点は現役JWたちにとっては、あまりにも残酷で直視できない事実でしょうけど。
つまり、ものみの塔聖書冊子協会の初代会長、エホバの証人を設立したC・T・ラッセルはキリストの教えに背く背教者です。
統治体と現役のエホバの証人たちは今でも彼を偉大で特別な人物として敬い、折に触れては彼がいかに素晴らしく謙遜な指導者だったかを学びます。
しかし残念ながら、真実は大きく違います。
エホバの証人たちは内輪の情報しか教えられることがないので、次の事実を知りません。
つまり、C・T・ラッセルはせん越にも神とキリストの指示に反して、キリストの再臨の時期を何度も何度も特定しようとしました。
イエスは彼らに言われた、「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは、あなた方の預かるところではありません」
使徒 1:7; マタ24:36
しかも極めて問題となる点は、そのキリスト再臨時期の特定手法としてピラミッドの寸法計算やオカルト的解釈を利用していた点です。
実際に、彼が書いた文章を見てみましょう。
偉大なピラミッドは、象形文字やスケッチによってではなく、場所、構造、測定によって我々に語っている。
・・・有名なプレアデス星座の中心の星アルキヨン・・・科学が認める限りでは、このアルキヨンが『真夜中のみ座』で、万有引力の法則体系の中心の座を占めており、神は、そこから宇宙を支配しているのである。
プレアデスはピラミッドの緯度のところに配置されており、アルキヨンがまさに正確にその線上にある。それは、素晴らしいことに偉大なピラミッドの建造物の日付とに、そして秋分の真中とに一致している。
聖書研究 (第3巻) 326~328p
プレアデス星座?アルキヨン?ピラミッドの緯度?建造物の日付?秋分の真中?
果たして、こんなオカルト文章を書く人間がクリスチャン、そしてキリストが任命した代表者なのでしょうか?
まさか。むしろ反キリストです。
さらに、ラッセルは聖書に関してこんな発言もしていました。
我々は、人々が聖書それ自体からでは神のご計画を見出すことはできないことを知っている。・・・聖書を1ページも読まなかったとしても『聖書研究』の引用箇所を参照しながら読むなら、その人は2年後には光の中にいるであろう。なぜなら、彼は聖書の光をもつからである。
ものみの塔 1910年9月15日号
聖書だけでは神のご計画を見出すことはできない、と。むしろ自分の著書を読め、と。
これがエホバの証人初代会長C・T・ラッセルの発言なのです。
現役JWの皆様、皆様の組織はオカルト的な背教者が設立した組織です。お気を付け下さい。
それにしても事実は小説より奇なりですね。
そんな反キリスト・ラッセルは1916年に亡くなり、翌年、J・F・ラザフォードが協会の会長に就任しました。
これがものみの塔聖書冊子協会の源流です。
このテーマに関しては有名な聖書研究者、中澤啓介牧師の著書『ものみの塔の源流を訪ねて』がよくまとまっています。
興味がある方はぜひ。
第3章まとめ
第3章「エホバの証人の弱点」はいかがだったでしょうか?
- エホバの証人最大の弱点は「聖書の核心を外しており、かつ幸せである」こと
- エホバの証人が持つ独特な聖書研究の手法がその弱点に拍車をかけてしまうこと
- 極め付けとして、初代会長がオカルト的な背教者であり反キリストであったこと
もう十分すぎるでしょう。
エホバの証人の弱点は以上です。
4章.『エホバの証人の先へ』
2章. 聖書の核心
結局のところ「聖書」は何を言いたいのか、まずはその核心を3つに要約したいと思います。
聖書はとても分厚い本ですので、全体の内容をしっかりと把握した上で要約できる人は少ないのではないでしょうか。
ただし注意点として、聖書をエホバの証人の組織内でのみ勉強してきた方にとって、以下3つの要約はおそらく聞き慣れない内容でしょう。
しかし、それは単に組織が好んで扱うテーマが非常に偏っているため、そして扱われるテーマがいつも聖書の核心から外れているためです。
とは言え、聖書全体の内容がまぁまぁ頭に入っている方なら、以下の要約は十分に理解できるでしょう。
以下、参考になれば嬉しいです。
聖書の世界観、ならびに聖書が言いたいことを要約するならば以下3点です。
- 現在、神は人類に対する支配権を持っていない
- 神の願いは昔から「祭司の王国」が完成すること
- 将来の「主の審判」では全人類がひとりひとり裁かれる
以上です。
あなたはどの項目にピンときて、どの項目にピンとこなかったでしょうか?
多くの方は最初の1番目から「ん?」だったのではと思います。
では早速、上記に挙げた3点を1つずつ確認して行きましょう。
1. 神は現在、人類に対する支配権を持っていない
キリスト教界隈の人間であっても、しっかりと意識できている人は少ないように思いますが、神は現在、人類に対する支配権を持ってはおりません。
ゆえに現在、神は私たち人類の営みに一切干渉していない、あるいは一切干渉できません。
もちろん聖書の観点からすれば、私たちの自然界や重力の法則、人間の素晴らしい人体システムを設計し創造されたのは神です。
東から太陽が昇り、大地に雨が降るのは神がその運行を中止していないからでしょう。
しかしながら「人類の所有権」に関して言えば、現在、神はそれを持ってはおりません。人類史のだいぶ初期に、神はそれを悪魔に譲渡しています。
恐ろしいことですが、これが聖書の示す世界観です。
実際にこの点についてはキリストの弟子ヨハネも、そして悪魔自身も聖書の中で言及しています。
わたしたちが神から出ており、全世界が邪悪な者の配下にあることを知っています。
ヨハネ一 5:19
そして悪魔は言った、「この権威すべてとこれらの栄光をあなたに上げましょう。それはわたしに渡されているからです。だれでもわたしの望む者に、わたしはそれを与えるのです」
ルカ 4:6
この辺の事情をよく分かっていない人は、何か悲惨な出来事があるとすぐ神を持ち出す傾向にあるようです。
「神はどこにいるのか?」「神は何をしているのか?」「神はいない」などなど。
聖書の世界観を前提とするなら、現在の人類の営みに関して、そこで何がなされ何が起ころうと神は一切関係ありません。
聖書の神を持ち出すのであれば、当然ながら神と一緒に悪魔をも持ち出すべきであり、人類に対する支配権は悪魔の方にあるわけです。
有名な哲学者フリードリヒ・ニーチェは「神は死んだ」と言い、無心論者も「神はいない」と言っています。これはある意味で正しい。
しかしそれは、神が存在しないという意味ではありません。私たち人類の営みに神は干渉していない、干渉できないという意味です。
実際、イエス・キリストもこの点をよく強調していました。「主人は外国に旅行に出かけています (マタイ25章)」と。
つまり、ちょうどあなたが自宅を不在にして海外旅行に出かけている時と同じように、神も、そしてキリストもこの世界を不在にしておられます。
この世界のオーナーは悪魔であり、神とキリストは不在である。
だからこそ、この世界は想像を絶するほどの悲しみと苦しみで満ち溢れているわけです。
これが聖書の示す世界観です。
聖書の神は人間に似ている
「まさか・・神ってそんなもんなの?」「神に不可能はないんじゃないの?」と言った声が聞こえてきそうですね。「私の知ってる神はそんなんじゃないぞ」という声が。
このように考えてしまう気持ちもよく分かりますが、このように考える方は「聖書の神」のイメージに関して大きな誤解をしています。
そんな誤解を正す上で、さらに聖書が示すもう1つの重要な世界観があります。
それは、私たちが考える以上に「神」は人間的であり、逆に、私たちが考える以上に「人間」は神に近い存在、神と対等な存在だという世界観です。
「わたしたちの像に、わたしたちと似た様に人を造ろう」。そうして神は人をご自分の像に創造された。
創世記 1:26
わたし自ら言った、「あなた方は神であり、あなた方は皆、至高者の子らである。
詩篇 82:6, ヨハネ 10:34,35
何世紀にも及ぶキリスト教の世界的な拡大に伴って、神は(そしてキリストは)大いに神格化されてきました。
そしてこの度が過ぎる神格化は「人間は神の考えを絶対に理解できない」とか「人間は決して神の域に到達できない」といった度がすぎる発想の元凶となってきました。
これは神と人との間に壁を設ける発想、神を人から隔離してしまう発想です。
しかしこの発想は大いに間違っています。聖書的ではありません。
上記に挙げた2つの聖句の通り、人間とはむしろ神に似せて造られた存在、キリストが認める通り、神にかなり近い同族関係なのです。
聖書的には本来、神と人間とは非常に似ています。
ゆえに私たち人間が強い好みやこだわりを持っているのと同様、人間のオリジナルである神も一個人として強い好みやこだわりを持っているのです。
例えば「律法」は神の強い好みやこだわりのカタマリですし、神は悪魔たちの言い分を、そして反逆を繰り返す古代イスラエルの言い分でさえ無視できませんでした。
ですから「神に不可能はない」とか「神はなんでもできる」という神の一般的なイメージは間違っています。
神は私たちと同じように両手を上げて喜んだり、唇を噛み締めて悔しがったり、人目を忍んで涙を流したりされるのです。
そして私たち人間と似ているがゆえに、神も当然ながら「やりたくても事情があってできない」という苦しい状況におかれることが多々あるのです。
*ちなみに、上記でしたように「神と人間を重ねて認識すること」がグノーシス主義や神秘主義のそもそもの源流です。
聖書の神は苦労の連続
そもそも、聖書の神は古代イスラエル国民と深く関わっていた紀元前から大きな不自由と苦労を強いられてきたと言えるでしょう。
むしろ聖書が示すところによると、神の計画がスムーズに進むことの方がむしろ稀です。
神が自分の顔に泥を塗られ、深く傷つけられ、ひどく心を痛めておられる様子は、ヘブライ語聖書の本当に至る所に描写されています。
たまに「旧約聖書の神はすぐに民族を滅ぼすから残酷だ」というような意見を耳にしますが、それは大きな間違いです。
と言うか、そのような発言をする人は単に聖書の時代背景に関して無知なだけに過ぎません。
なぜなら、旧約聖書の中で神が滅ぼす民族は決まってバアル神の為に子供を焼くといった非常に恐ろしい民族的な習慣を持っていたからです。
それとも「神は残酷だ」などと言う人は「バアル神の為に子供を焼くことに賛成だ」とでも言いたいのでしょうか。そんな訳ないでしょう。
神は古代イスラエルを利用して、野蛮な民族を裁いていただけに過ぎません。
むしろ、そういった野蛮な民族に対してさえも神は裁きの前に40年間もの執行猶予を与えたりしています。これでも「残酷」なのですか?
本当にヘブライ語聖書に精通しているのであれば、その中に見えてくるものは「残酷な神の姿」などではありません。
そこに見えてくるものは、古代イスラエル国民に何度も裏切られる「可哀想な神の姿」です。
この点は、民数記14章に記録されているモーセとのやりとりからも確認できます。
神は古代イスラエル国民が自分との契約を何度も破り、自分の名誉を何度も傷つけたので「モーセの子孫からまた新しく国民を作りたい」とモーセに愚痴をこぼしたことがありました。
神が愚痴をこぼすのです。
これが聖書の世界観であり、聖書が示すところの神の姿です。
エホバの証人が強調する「完全無欠な神」のイメージとは大分違いますね。完全無欠ではあるのでしょうが決して順風満帆ではない。
そして、この苦しい神の姿の延長線上に私たちが住む今の世界があるのです。
それにしても、なぜ神はこの地を不在にしているのでしょうか。なぜ神は悪魔に人類の所有権を譲渡してしまったのでしょうか。
現時点では「神なりの苦境があり、神なりの計画がある」ことを押さえておけば良いでしょう。
忘れないで下さい。
聖書の神はあなたと同じように一個人としての強い好みやこだわりをお持ちです。
あなただって個人的な事情、そして考えに基づいて計画を練ったり行動を起こしたりするはず。神もあなたと同じです。
いずれにせよ、
古代イスラエル国民との契約を完全に破棄した西暦1世紀から21世紀の現在に至るまで、神はただ聖書のみを地上に残し不在です。
彼らにはモーセと預言者たち(聖書)がある。それに聴き従えばよい。
ルカ 16:19~31
これが聖書の示す世界観です。
2. 神の願いは昔から「祭司の王国」が完成すること
先に言及したように、現在、この世界のオーナーは悪魔たちです。
そして悪魔たちから所有権を取り戻すため、そして新しい天と新しい地を実現させるために神が昔から必要としているのが「祭司の王国 (出エ9:6)」の確立です。
なぜ神は「祭司の王国」を必要としているのでしょうか?
この点を理解するために非常に重要になってくるのが「古代イスラエル国」という存在です。
神がこの古代イスラエルを設置した理由とその役割、これを詳細に説明できるエホバの証人がほとんどいないことは悲劇としか言いようがありません。
なぜなら、これこそが聖書の中でもっとも重要で、もっとも中心的なテーマだからです。
この聖書の核心を全く分かっていない点を見ても、エホバの証人たちの教えは大いに偏っているもの、聖書の本筋からかなり逸れたものだと分かるでしょう。
ではここで、エホバの証人たちが全く分かっていない聖書の核心、古代イスラエル国の設置の理由とその役割を確認しておきましょう。
詳細は後述しますので、まずは以下の流れを確認して下さい。
ちなみに、あの分厚い聖書すべてを読むのが面倒な人はこれだけでも把握しておいて下さい。
この流れが聖書全体の核心ですから。
古代イスラエル国が設置された理由とその役割、期待されていた流れは以下です。
- 天使長だったサタンが人類に対して「神」になることを目論む (エゼ28:12-17)
- 天使長だったサタンは神の「神権」に対して異議申し立てを行う (イザ14:12-14)
- 人類の始祖アダムはサタンに誘導されサタンの共犯者となる (創3:1-6)
- 人類は神の支配権から外れる (創3:23)
- 神は自分が巻き込まれた紛争を解決するため「祭司の王国」を発案する (創3:15)
- サタンと仲間たちは人類を自分たちの配下に置く (創10:8~12)
- 神はアブラムに協力を要請する (創12:1~3)
- 神はアブラム一族が大きくなったので古代イスラエル国を建国 (出エ19~24)
- 神はこの国家をそのまま「祭司の王国 / 花嫁」にしようと考える
- 国民たちは「花嫁」の資格を維持するため律法を守り続ける必要があった (モーセ五書)
- 「花婿」が地上に降りてくる頃には「花嫁」は満員となり支度を整えている(はずだった)
- 「花婿」と「花嫁」とが1体となり神と元天使長サタンたちの法廷紛争の調停を行う
- 神はサタンから人類に対する神権を取り戻し「新しい天と新しい地」をスタートする
上記13項目が「聖書」の核心的な流れ、古代イスラエル国が設置された理由とその役割です。
聖書の核心がここまで丁寧に示されることは稀でしょうから、上記の内容に新鮮さを感じる人は多いでしょうね。
さて、
古代イスラエル国民たちは神が巻き込まれた紛争、つまり神と悪魔たちとの法的紛争を公正な第三者として調停するという、極めて輝かしい職務につくことが期待されていました。
古代イスラエル国民たちは「祭司」、つまり現代の法廷闘争でいうところの「調停人」の役割につくことが求められたわけです。
裁判所の調停人とは、法的な紛争状態にある2者間のために公正な第三者となり、解決の手続き、あるいは仲裁を行うために裁判所から選任される人たちのことです。
AさんとBさんが法的に大ゲンカをした場合、その大ゲンカとは無関係なCさんが公正な第三者として間に入って仲裁をする、調停人とはこのCさんのことです。
ちなみに日本の法律でも、裁判所から選任される人たちで構成されるグループを「調停委員会」と呼んだりします。
そして、この調停委員会に選任されるためには良識を持つ優秀な専門家など、一定の高度な資格が必要になるわけです。
調停委員は,調停に一般市民の良識を反映させるため,社会生活上の豊富な知識経験や専門的な知識を持つ人の中から選ばれます。
具体的には,原則として40歳以上70歳未満の人で,弁護士,医師,大学教授,公認会計士,不動産鑑定士,建築士などの専門家のほか,地域社会に密着して幅広く活動してきた人など,社会の各分野から選ばれています。
最高裁判所「調停委員」
そして、神ご自身が悪魔たちとの法的紛争を解決するためにずっと昔から欲しがっている優秀な調停委員会、これがつまり祭司の王国です。
神の調停委員会は以下のような難しい審議を扱うことになっています。
- 悪魔たちが神の神権に異議申し立てをしている件
- 始祖アダムが意図的に神の権利を侵害した件
- 堕天使たちや悪い人間たちが犯してきた悪事
では、神が古代イスラエル国民と結んでいたこの契約について、もう一度しっかり聖書の中から確認しておきましょうか。
出エジプト記の中には古代イスラエルの建国の様子が詳しく記録されています。
実はここに、神が古代イスラエル国民たちに対して結んだ契約の具体的な内容が書かれています。
この箇所は聖書全体の中でも非常に重要な箇所です。注目して下さい。
エジプトの地を出た後、第三の月のその同じ日に、イスラエルの子らはシナイの荒野に入った。・・そしてモーセはまことの神のもとに上って行った。
するとエホバは山の中から彼に呼びかけてこう言われた。「・・それで今、もしわたしの声に固く従い、わたしとの契約をほんとうに守るなら、あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。
・・そしてあなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの子らにあなたの言うべき言葉である」
出エジプト記 19:1-7
そこでモーセはエホバのすべての言葉を書き記した。・・最後に彼は契約の書を取り、それを民の耳に読み聞かせた。
すると彼らは言った、「エホバの話されたすべてのことをわたしたちは喜んで行い、またそれに従います」。
そこでモーセはその(雄牛の)血を取り、それを民に振り掛けて、こう言った。「さあ、これらのすべての言葉に関してエホバがあなた方と結ばれた契約の血です」
出エジプト記 24:4-8
このようにして古代イスラエル国民は誕生しました。
諸説はありますが、この出来事はおおよそ紀元前1500年頃のこととされています。これはイエス・キリストが誕生する実に1500年以上も昔のことです。
引用1つ目の下線部に注目して下さい。出てきましたねキーワードが。
あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。
出エジプト記 19:1-7
ここでのポイントは、古代イスラエル国民たちは神に対して祭司、つまり調停人になることが期待されていたという点です。
聖書の中で「祭司」というと、どうしてもソロモン神殿なんかで牛の犠牲を捧げているレビ族ばかりが思い浮かぶでしょうが、彼らは単なる役者に過ぎません。
聖書の中で第一に注目すべき「祭司」とは、単なる役者である地上のレビ族の方ではなく、レビ族に演じられていた側、つまり天の祭司たちの方です。
つまり聖書の中に出てくる「祭司」には以下の2種類があり、後者の方が本物です。
- 幕屋やソロモン神殿などで劇を演じていた地上の役者
- 実際に天で神に対して法的な調停を行う天の祭司たち
現代人が「祭司」と聞くと、どうしても神社や神殿等で神仏に対して特別で怪しげな祭儀を行う人たちのことを思い浮かべてしまうでしょう。
しかし少なくとも幕屋やソロモン神殿で働いていた祭司たちは違います。
彼らは文字通り役者でしたし、幕屋やソロモン神殿も文字通り劇場の意味合いが強い施設でした。
キリストから叱責されたパリサイ派や律法教師たちも大いに勘違いしていた点ですが、この点に関してはパウロが「ヘブライ人への手紙」で詳しく解説しているので参照して下さい。
話を戻しましょう。
さらに出エジプト直後、神と古代イスラエル国民との契約で注目できるポイントがあります。
それは次の点です。
最後に彼は契約の書を取り、それを民の耳に読み聞かせた。
出エジプト記 24:3-8
つまり、神と古代イスラエルとの契約は単なる口約束や、古代イスラエルの側の一方的な思い込みなどではなかった、という点です。
引用太字にあるとおり、神と古代イスラエル国民との契約関係は「契約の書」というかたちで明確に文書化されています。
明確に文書化された契約の書を神から直接受けたこの瞬間から、古代イスラエルは「神の国民」を公式に名乗るようになりました。
そして古代イスラエル国民にはその資格が実際に神から与えられており、このゆえに古代イスラエルは正真正銘の「神の組織」でもあったわけです。
神から任命されるというのは本来こういうことです。エホバの証人とはえらい違いですね。
ちなみに、祭司の王国の構想が初めて聖書に登場する箇所も確認しておきましょう。
祭司の王国の構想は、エデンでの悪魔の謀反の直後、そしてそのしばらく後になって神がアブラムに協力を要請している部分で言及されています。
わたしは、お前と女との間、またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう。
創世記 3:15; ローマ 16:20
そして、あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。
創世記 22:18
そしてこの構想の実現は、聖書冒頭の「出エジプト記」から聖書巻末の「啓示の書」まで一貫して変わらない正に神の悲願なのです。
以下、確認して下さい。
あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。
出エジプト記 19:1-7
あなたはほふられ、自分の血をもって、あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして、彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし、彼らは地に対し王として支配するのです。
ヨハネへの啓示 5:6-10
キリストが地上に降りて来て自分の血を流された理由にも注目して下さい。
キリストが血を流された理由、それは自分の血を対価として世界中から人々を買い取り、彼らを神に対して祭司の王国とするためでした。
確かにキリストは人類の贖罪のために血を流されましたが、本命は人類の贖罪ではありませんでした。そうではなくて本命はその先、悪魔と仲間たちの悪事を裁く祭司の王国の確立の方にあったわけです。
この点は非常に多くのクリスチャンも誤解している点ですので覚えておきましょう。
という訳で、
ここまで説明すれば十分でしょう。いかに神が祭司の王国を必要としておられるかが。
これほどまでに神が祭司の王国を必要としておられる理由をまとめておきます。
- 自分が巻き込まれた法的紛争を、第三者機関を利用してあくまでフェアに解決するため
- 法的に悪魔から神権を取り戻し、誰もが納得する形で新しい天と地をスタートさせるため
忘れないで下さい。
聖書の世界観によると、神は天でかなりの大所帯をお持ちです。
その大所帯は少なく見積もって数億。これに加えて自分に異議申し立てをしている悪魔と堕天使たちも数多くいます。
フェアネス (公正) を重んじる神があえてご自身でこの件を取り扱わず、それを地に降ったみ子とその花嫁たちに扱わせようとは、なかなか深遠なお考えではないでしょうか。
父はだれひとり裁かず、裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。
ヨハネ 5:22
あなた方は、聖なる者たちが世を裁くことを知らないのでしょうか。それで、世はあなた方によって裁かれる事になっているのに、あなた方はごく些細な事柄を審理することもできないのですか。
あなた方は、わたしたちがみ使いを裁くようになることを知らないのですか。では、どうして今の生活上の事柄を裁かない事があるでしょうか。
コリント一 6:2,3
これが古代イスラエル国が設置された理由とその役割です。
そしてエホバの証人たちはこの点をよく分かっていません。まぁ、多くの一般のクリスチャン達も同じだと思いますが。
聖書の中で1番重要なテーマなのに。
「祭司の王国」唯一の修正点
当初、神の調停委員会の成員として選任されるためには以下2つの資格が必要でした。
- アブラハムの血を引いていること
- 調停人として優良な資格を満たしていること
つまり、祭司の王国はもともと古代イスラエルの優良な人員で構成される予定でした。
先に挙げた出エジプト記の記録の中でも、神が契約を取り交わした相手が古代イスラエル、つまりアブラハムの子孫たちだったことを思い出して下さい。
あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの子らにあなたの言うべき言葉である。
出エジプト記 19:6
ご自身のみ名で著名した正式な契約だったので、神は1500年もの長期間にわたって祭司の王国の成員を古代イスラエル国民たちによって構成しようと懸命な呼びかけを続けました。
しかし、それは叶いませんでした。
愚かにも古代イスラエルは神との契約を1500年間にもわたり破り続けました。
実際、ヘブライ語聖書の約70%はいかに古代イスラエルが神との契約を破り続け、いかに神を侮辱し続けたかの悲しい記録です。
挙げ句の果ては、紛争仲裁の立役者、調停委員会の委員長、祭司の王国の心臓部とも言える大祭司イエス・キリストを殺害してしまう始末です。
西暦33年、古代イスラエル国民は自分たちの心臓を刺し殺したわけです。
こうして、古代イスラエルは神に対して祭司の王国になるという輝かしい資格を失いました。古代イスラエル国民の大失態です。
しかし神には祭司の王国が必要です。
未だ「花嫁」は支度を整えておらず、それは満員となる必要があるのです。
さて、神はどうされたでしょうか?
イスラエル国民の大失態を解決するために、神は「祭司の王国」の条件を修正されます。
つまり先に挙げた2つの条件のうち、上1つ目が削除されました。
アブラハムの血を引いていること
- 調停人として優良な資格を満たしていること
聖書巻末の書「ヨハネへの啓示」の中でも、祭司の王国の招待が古代イスラエル国民から、諸国の人たちへと広く開放されていることに注目して下さい。
旧約:
あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの子らにあなたの言うべき言葉である。
出エジプト記 19:6
新約:
あなたはほふられ、自分の血をもって、あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして、彼らをわたしの神に対して王国また祭司とし、彼らは地に対し王として支配するのです。
ヨハネへの啓示 5:9,10
こうして神は、アブラハムの子孫たちから祭司を集めるという契約を「旧い契約」として破棄し、世界中の人々から祭司を集めるという契約を「新しい契約」として修正しました。
このようわけで聖書の名称に関しても大祭司の殺害以前、つまり契約対象がまだ古代イスラエルにあった聖書が『旧約聖書』と呼ばれます。
一方で、大いなる大祭司の殺害以降、つまり契約対象が世界中の人々に切り替わった聖書が『新約聖書』と呼ばれているわけです。
ちなみに、この修正に従ったのが当時のキリストの弟子たち(後のキリスト教徒)で、この修正を拒んだのが当時の宗教指導者と古代イスラエル国民たち(後のユダヤ教徒)です。
古代イスラエル国民たちはどこまでも強情ですね。
現在のユダヤ教徒たちが新約聖書を絶対に認めていないのも、未だに旧約は有効であり、神の目が自分たちアブラハムの子孫に向けられているのだと固く信じているからです。
さて、
旧約から新約への切り替わりが実際に実行されたのは、厳密に言えば「大祭司殺害事件」の3年後、つまり西暦36年頃のことでした。
イタリヤ隊の軍人でコルネリオというクリスチャンが、イスラエル国民ではない外国人としては初めて祭司の王国、神の調停委員会の成員として神から招集されています (使徒10章)。
そして、大祭司キリストがもっぱら扱っていたテーマもこの点、つまり条件の修正でした。
イエスの宣教のテーマが「神の王国」だったという点に関しては、エホバの証人もかろうじて正しく認識はしていますが、これだけでは全然ダメです。
イエスの宣教のテーマは神の王国に関する「条件の修正」だったこと、その修正点はたった1つで「人種の解禁」だったこと、ここまで説明できなくてはいけません。
まぁ早い話、イエス・キリストは当時のユダヤ人たちをクビにするために天から降りて来たわけですね。「あなたたちは千年以上も酷い契約違反を繰り返したのでクビですよ」と。
「次の新しい契約からはあなた方ユダヤ人だけじゃなく、諸国の人たちも調停委員会メンバーになれますのでその辺りよろしくお願いします」と、このようにお知らせに来たわけです。
これに対して当時の宗教指導者などエリートユダヤ人たちが大いに逆ギレしてイエス・キリスト委員長を処刑してしまった、福音書をあえて単純化するとこうなるかと思います(ルカ20:9-16)。
イエスの宣教のテーマが条件の修正であったからこそ、イエスがおもに遣わされたのは「囲いの中の羊」つまり古代イスラエル国民であったにも関わらず「王国のこの良いたよりは人の住む全地で宣べ伝えられる」必要があった、とこのようになるわけです。
エホバの証人は「水をぶどう酒に変えた」とか「海の上を歩いた」とか「忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか」といった自分たちの好みにばかり注目しているため本来のキリストの宣教テーマに気付きません。
なんと残念なことでしょう。
しかしながら、イエス・キリストが福音書のいたるところで繰り返し説明しているのは正にこのことです。
特にたとえ話を使った文脈に多く見られます。
ここではごく一部の例を挙げておきますが、しっかりと四福音書の全文を読んでご自身で確認しておいて下さい。
このゆえにあなた方に言いますが、神の王国はあなた方から取られ、その実を生み出す国民に与えられているのです。
マタイ 21:33~43
招いておいた者たちはそれに値しなかった。それゆえ、市外に通ずる道路に行き、だれなりとあなた方の見つける者を婚宴に招きなさい。
マタイ 22:1~13
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石打ちにする者よ。
わたしは幾たびあなたの子供たちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるかのように。
しかし、あなた方はそれを望みませんでした。見よ、あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています。
マタイ 23:37,38
また、わたしにはほかの羊がいますが、それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず、彼らはわたしの声を聴き、一つの群れ、一人の羊飼いとなります。
ヨハネ 10:16
条件の修正がキリストの宣教テーマだったので、ペテロやパウロといった初期クリスチャンたちも当然のことながらこの修正をきちんと踏襲しています。
エホバの証人たちはここでも理解が及ばないようですが、使徒たちやパウロが繰り返し説明しているのもこのこと、つまり条件の修正でした。
該当箇所を一部あげておきます。
それで、パウロとバルナバは大胆に語って言った、「神の言葉はまずあなた方に対して語られることが必要でした。
あなた方がそれを押しのけて、自らを永遠の命に値しない者と裁くのですから、ご覧なさい、わたしたちは諸国民の方に向かいます」
使徒 13:46
ですから、わたしたちの決定は、諸国民から神に転じてくる人々を煩わさず、ただ、偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。
使徒 15:19,20
その憐れみの器とは神が栄光のためにあらかじめ備えられたもの、すなわちわたしたちであり、ユダヤ人だけでなく、諸国民の中からも召されているのです。
ローマ 9:23,24
ほかの世代において、この奥義は、今その聖なる使徒や預言者たちに霊によって啓示されているほどには、人の子らに知らされていませんでした。
すなわちそれは、諸国の人々が良いたよりを通してキリスト・イエスと結ばれて、共同の相続人、同じ体の成員、わたしたちと共に約束にあずかる者となる、ということです。
エフェソス 3:5,6
ゆえに、アブラハムの子孫ではない外国人第1号のコルネリオが召された西暦1世紀から私たちが生きる21世紀の現代に至るまで、
神は自分の紛争を調停してくれる「祭司の王国」の成員が世界中から集まってくるのをただただ待っておられるわけです。
そして悪魔は、自分の悪事が追及され厳しく裁かれるその時を先延ばしにしようと、必死に人類を騙し盛大な悪あがきをしているわけです。
しかし大祭司の血はすでに神のみ前に注ぎ出され人類の贖罪は完了しております。
あとは調停委員会つまり祭司の王国メンバーの数がそろうだけ、神が抱える法的紛争が彼らによって解決されるだけなのです。
さて、彼ら(イスラエル)の踏み外しが世にとって富となり、彼らの減退が諸国の人たちにとって富となるのであれば、彼らの数のそろうことはなおのことそのようになるはずです。
ローマ 11:12
わたしはあなた方がこの神聖な奥義について無知でいることがないようにと願うのです。すなわち、諸国の人たちが入ってきてその人たちの数がそろうまで、感覚の鈍りがイスラエルに部分的に生じ、こうして全イスラエルが救われることです。
ローマ 11:25,26
そして、彼らは大声で叫んで言った、「聖にして真実な、主権者なる主よ、あなたはいつまで裁きを控え、地に住む者たちに対するわたしたちの血の復しゅうを控えておらえるのでしょうか」。
すると、白くて長い衣がその一人一人に与えられた。そして彼らは、自分たちが殺されたと同じように殺されようとしている仲間の奴隷また兄弟たちの数も満ちるまで、あとしばらく休むように告げられた。
啓示 6:9~11
つまり、神の調停委員会のメンバーは現在も募集中なのです。
神は「地上に組織」など必要としない
いかがでしょうか?
聖書の核心的テーマをおさえると、あらためて神が地上に何かを必要としている訳ではないことが分かります。
神が欲しいのは自分の紛争を調停してくれる祭司の王国であり、これは最初から何も変わっていません。
ただ過去に1度だけ、祭司の王国の人種を解禁した、ただそれだけの事なのです。
エホバの証人たちは「神は地上に新しい組織を必要としておられる!私たちが唯一のそれなのだ!」と声高に主張しております。
しかし神からすれば「地上に組織が必要?はて?」でしょうね。
ちなみに、祭司の王国という聖書の核心的テーマを踏まえて考えた場合、エホバの証人たちの信条は以下のようなふざけたものになります。参考にどうぞ。
- 紀元前、神は「祭司の王国」を必要とされたのでアブラムに協力を要請した
- 西暦1世紀、アブラハムの子孫が「大祭司」を殺害してしまったので人種を解禁した
- 西暦20世紀、神は「地上のすべての持ち物を任せるため」地上に組織を任命した
いやいや、明らかに3番目は異物です。
そもそも地上のすべてのものは悪魔に譲渡されているのであって (ルカ4:6)、唯一の所有物だった古代イスラエル国民も神はとうの昔に放棄しました。
つまり、この地上に神の持ち物など何一つ残っていない。だから「持ち物」もクソもない。
それなのに「地上のすべての持ち物を任せる」とは一体どのような意味なのでしょう?
海老名市にあるソロモン神殿の足元にも及ばないコンクリートのことでしょうか?
それともアメリカの偽預言者に騙されている可哀想な羊たちのことでしょうか?
まぁこの点に関しては次の章で詳しく扱います。
さて、そろそろ聖書の核心の最後です。
祭司の王国の定員が満員となり「花嫁」がその支度を整えたら、その次にはいったい何が待ち受けているのでしょう。
主の審判です。
つまり調停委員長キリストと、その王国の調停人集団とによる天界と人間界を広く巻き込んだ宇宙規模の大裁判です。
あなたはほふられ、自分の血をもって、あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして、彼らをわたしの神に対して王国また祭司とし、彼らは地に対し王として支配するのです。
啓示 5:9,10
3. 将来の「主の審判」では全人類がひとりひとり裁かれる
ルネサンス期に活躍した巨匠ミケランジェロ・ブオナローティが描いた『最後の審判』はあまりにも有名でしょう。
このフレスコ画は1536年頃からバチカンにあるシスティーナ礼拝堂の正面の壁に描かれ、今でもその場所を訪れる観光客たちに感動を与えています。
イエス・キリストが目に見える状態でこの地上に降りてきて、世界規模の裁判を始めるというものはキリスト教の教義の中ではかなりメジャーなものだと思います。
宗教画の中でも昔から描かれ続けてきた題材です。
一方で、エホバの証人はイエス・キリストが目に見える状態で地上に降りてくることも、自分たちが一般人と同じようにキリストの裁判にかけられるということも知りません。
彼らはそのようには認識していません。
むしろ裁判などなしに救われて、兄弟姉妹たちと一緒に楽園に行くと信じております。
しかしながらキリスト教の一般的な教義からすると、キリストは目に見える状態で地上に降りてきますし、今まで存在した全人類ひとりひとりを平等に裁判にかけます。
百聞は一見にしかず、論より証拠。
ということで以下、主の審判に言及している新約聖書の聖句をほぼ全て挙げておきます。
旧約聖書まで含めたらキリがありませんので今回は新約聖書だけに限定しますが、とても大切な部分ですのでしっかりと確認して下さい。
あなた方に言いますが、人が語るすべての無益な言葉、それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。
マタイ 12:36
それゆえ、人が、「見よ、彼は荒野にいる」と言っても、出て行ってはなりません。「見よ、奥の間にいる」と言っても、それを信じてはなりません。稲妻が東の方から出て西の方に輝き渡るように、人の子の臨在もそのようだからです。
マタイ 24:26,27
またその時、人の子のしるしが天に現れます。そしてその時、地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき、彼らは、人の子が力と大いなる栄光を伴い、天の雲に乗ってくるのを見るでしょう。
マタイ 24:30
人の子がその栄光のうちに到来し、またすべてのみ使いが彼と共に到来すると、そのとき彼は自分の栄光の座に座ります。そして、すべての国の民が彼の前に集められ、彼は、羊飼いが羊をやぎから分けるように、人をひとりひとり分けます。
マタイ 25:31,32
それでも、あなた方に言っておきますが、今後あなた方は、人の子が力の右に座り、また天の雲に乗って来るのを見るでしょう。(敵に対する発言)
マタイ 26:64
またその時、人々は、人の子が大いなる力と栄光を伴い、雲のうちにあって来るのを見るでしょう。
マルコ 13:26
そしてあなた方は、人の子が力の右に座り、また天の雲とともに来るのを見るでしょう。(敵に対する発言)
マルコ 14:62
そのとき彼らは、人の子が力と大いなる栄光を伴い、雲のうちにあって来るのを見るでしょう。
ルカ 21:27
父はだれひとり裁かず、裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。(敵に対する発言)
ヨハネ 5:22
そしてまた、わたしが行ってあなた方のために場所を準備したのなら、わたしは再び来て、あなた方をわたしのところに迎えます。
ヨハネ 14:3
ガリラヤの人たちよ、なぜ空を眺めて立っているのですか。あなた方のもとから空へ迎え上げられられたこのイエスは、こうして、空に入っていくのをあなた方が見たのと同じ様で来られるでしょう。
使徒 1:11
以上が、イエス・キリストご自身とみ使いの発言です。
「雲のうちにあって来るのを見る」ことが繰り返されています。弟子たちに対しても、そして敵たちに対しても同じように「来るのを見る」と発言していることに注目して下さい。
では引き続きキリストの死後、キリストの弟子たちの発言にも注目してみましょう。
彼らギリシャ語聖書の筆者たちも一貫してキリストの臨在が目に見えること、そして私たちすべてがキリストに裁かれることに言及しています。
またこの方は、民に宣べ伝えるように、そして、これが生きている者と死んでいる者との審判者として神に定められた者であることを徹底的に証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
使徒 10:42
律法を行う者が義なる者と宣せられるからです。・・神がキリスト・イエスを通して人類の隠された事柄を裁く日に、このことはなされます。
ローマ 2:13~16
わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つことになるのです。・・わたしたちは各々、神に対して自分の言い開きをすることになるのです。
ローマ 14:10~12
それゆえ、定められた時以前に、つまり主が来られるまでは、何事も裁いてはなりません。主は、闇の隠れた事柄を明るみに出し、また心の計り事を明らかにされます。
コリント一 4:5
わたしたちは皆キリストの裁きの座の前で明らかにされなければならないからです。こうして各人は、それが良いものであれ、いとうべきものであれ、自分が行ってきたことにしたがい、その体で行った事柄に対する自分の報いを得るのです。
コリント二 5:10
それは、あなた方がより重要な事柄を見きわめるようになり、こうして、キリストの日に至るまできずなく、他の人をつまづかせることなく
フィリピ 1:10
こうしてわたしはキリストの日に、自分が無駄に走ったり無駄に骨折ったりしなかったという、歓喜の理由を持てるのです。
フィリピ 2:16
そのみ子の天からの現れを持つようになったかを、彼ら自身が語り伝えているからです。そのみ子は神が死人の中からよみがえらせた方、すなわちイエスであって、来らんとする憤りからわたしたちを救い出してくださる方なのです。
テサロニケ一 1:10
そして、あなた方兄弟たちの霊と魂と体があらゆる点で健全に保たれ、わたしたちの主イエス・キリストの臨在の際にとがめのないものでありますように。
テサロニケ一 5:23
一方患難を忍ぶあなた方には、主イエスがその強力なみ使いたちを伴い、燃える火のうちに天から表し示される時、わたしたちとともに安らぎをもって報いることこそ、神によって義にかなったことであると言えるからです。
テサロニケ二 1:7
わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで、汚点のない、またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行ないなさい。その顕現は、幸福な唯一の大能者がその定めの時に示されるのです。
テモテ一 6:14,15
わたしは、神のみ前、また生きている者と死んだ者とを裁くように定められているキリスト・イエスのみ前にあって、またその顕現と王国とによって、あなたに厳粛に言い渡します。
テモテ二 4:1
わたしは戦いを立派に戦い、走路を最後まで走り、信仰を守り通しました。今から後、義の冠がわたしのために定め置かれています。それは、義なる審判者である主が、かの日に報いとしてわたしに与えてくださるものです。
テモテ二 4:7,8
そしてわたしは、幸福な希望と、偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光ある顕現とを待っているのです。
テトス 2:13
そして、人がただ一度限り死に、そののち裁きを受けることが定め置かれているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うため、ただ一度かぎりささげられました。そして、彼が二度目に現れるのは罪のことを離れてであり、それは、自分の救いを求めて切に彼を待ち望む者たちに対してです。
ヘブライ 9:27,28
ですから、兄弟たち、主の臨在の時まで辛抱しなさい。ご覧なさい、農夫は地の貴重な実を待ちつづけ、早い雨と遅い雨があるまで、その実について辛抱します。
ヤコブ 5:7
ですが、わたしの兄弟たち、何よりも、誓うことをやめなさい。・・むしろ、あなた方の、「はい」は「はい」を、「いいえ」は「いいえ」を意味するようにしなさい。あなた方が裁きのもとに倒れることのないためです。
ヤコブ 5:12
しかしそうした人々は、生きている者と死んだ者とを裁く備えのある方に対して言い開きをすることになるでしょう。
ペテロ一 4:5
では今、子供らよ、彼と結ばれたままでいなさい。彼が現されるとき、その臨在の際に、わたしたちがはばかりのない言い方ができ、恥を被って彼から退かなくてもよいようにするためです。
ヨハネ一 2:28
イエス・キリストは神の子であられるとの告白をする者が誰であっても、神はそのような者とずっと結びついておられ、その人は神と結ばれているのです。
・・こうして、わたしたちに関して愛は全うされました。それは、わたしたちが裁きの日に、はばかりのない言い方ができるようになるためです。
ヨハネ一 4:15~17
自分を神の愛のうちに保ちなさい。そして、永遠の命を目ざしつつわたしたちの主イエス・キリストの憐みを待ちなさい。
ユダ 21
見よ、彼は雲と共に来る。そして、すべての目は彼を見るであろう。彼を刺し通した者たちも見る。また、地のすべての部族は彼のゆえに悲嘆して身を打ちたたくであろう。しかり、アーメン。
啓示 1:7
そして、海はその中の死者を出し、死とハデスもその中の死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いにしたがって裁かれた。
啓示 20:13
見よ、わたしは速やかに来る。そして、わたしが与える報いはわたしと共にある。各々にその業のままに報いるためである。
・・わたしイエスは自分の使いを遣わし、諸会衆のためにこれらの事についてあなた方に証しした。
啓示 22:12~16
これらのことについて証しされる方が言われる、「しかり、わたしは速やかに来る」。アーメン! 主イエスよ、来てください。主イエス・キリストの過分のご親切が聖なる者たちと共にありますように。
啓示 22:20,21
以上です。
文字通りすべてのギリシャ語聖書筆者たちがキリストの臨在、その顕現、その裁判に言及しています。
ギリシャ語聖書では、その全体を通して次のようなことが明確に繰り返されているのです。
- イエス・キリストは目に見える状態で地上に降りてくる
- イエス・キリストは人類すべてをひとりひとり裁判にかける
いかがでしたか?
少しだけ長い章でしたが、ここまで読み進めてきたあなたは、あの聖書を貫いている核心的テーマを把握してしまったはずです。
とても古い書物なのに聖書って興味深いと思われませんか?
聖書の神についてもっと深く知りたいと感じませんでしたか?
そして祭司の王国について、神の調停委員会についてもっと深く学びたいと思われませんか?
もしそうなら嬉しいです。是非ともご自身で聖書の研究を続けて下さい。
あなたは既に聖書の核心を掴んでおりますので、ご自身の研究とその理解はスムーズに進むことでしょう。
- 現在、神は人類に対する支配権を持っていない
- 神の願いは昔から「祭司の王国」が完成すること
- 将来の「主の審判」では全人類がひとりひとり裁かれる
驚愕すべき事実
さてここで、驚愕すべき事実をお伝えしましょう。
なんと、エホバの証人たちは上記に挙げた聖書の核心を知りません。
長年エホバの証人をやっていようと、どれほど頻繁に集会や大会に出席しようと彼らは聖書の核心を教えられることがないからです。
エホバの証人たちが教えられること、それは例えば統治体を信じること、組織の指示に従うこと、会衆内で平和に過ごすこと、などなどです。
この「などなど」の中に聖書の勉強や伝道を頑張ることが入ります。
このような訳で、エホバの証人たちはいつまで経っても聖書の核心に到達することができないのです。決して。
まるで手品のようではないでしょうか?
エホバの証人たちはあれほど聖書の神を愛し、神の子キリストを愛し、あれほど聖書も愛し、研究しているというのに。
どんなに懸命に聖書を研究しても、彼らは前に進むことがありません。まるで回し車の中を懸命に走るハムスターのように。
しかし彼らが「ハムスター」になってしまうのには理由があります。その理由がエホバの証人の弱点だと言えるでしょう。
次章では「主の審判」にスポットライトを当てつつ、エホバの証人が不毛なハムスターになってしまう、その理由について説明します。
3章.『エホバの証人の弱点』へ