2章. 聖書の核心
結局のところ「聖書」は何を言いたいのか、まずはその核心を3つに要約したいと思います。
聖書はとても分厚い本ですので、全体の内容をしっかりと把握した上で要約できる人は少ないのではないでしょうか。
ただし注意点として、聖書をエホバの証人の組織内でのみ勉強してきた方にとって、以下3つの要約はおそらく聞き慣れない内容でしょう。
しかし、それは単に組織が好んで扱うテーマが非常に偏っているため、そして扱われるテーマがいつも聖書の核心から外れているためです。
とは言え、聖書全体の内容がまぁまぁ頭に入っている方なら、以下の要約は十分に理解できるでしょう。
以下、参考になれば嬉しいです。
聖書の世界観、ならびに聖書が言いたいことを要約するならば以下3点です。
- 現在、神は人類に対する支配権を持っていない
- 神の願いは昔から「祭司の王国」が完成すること
- 将来の「主の審判」では全人類がひとりひとり裁かれる
以上です。
あなたはどの項目にピンときて、どの項目にピンとこなかったでしょうか?
多くの方は最初の1番目から「ん?」だったのではと思います。
では早速、上記に挙げた3点を1つずつ確認して行きましょう。
1. 神は現在、人類に対する支配権を持っていない
キリスト教界隈の人間であっても、しっかりと意識できている人は少ないように思いますが、神は現在、人類に対する支配権を持ってはおりません。
ゆえに現在、神は私たち人類の営みに一切干渉していない、あるいは一切干渉できません。
もちろん聖書の観点からすれば、私たちの自然界や重力の法則、人間の素晴らしい人体システムを設計し創造されたのは神です。
東から太陽が昇り、大地に雨が降るのは神がその運行を中止していないからでしょう。
しかしながら「人類の所有権」に関して言えば、現在、神はそれを持ってはおりません。人類史のだいぶ初期に、神はそれを悪魔に譲渡しています。
恐ろしいことですが、これが聖書の示す世界観です。
実際にこの点についてはキリストの弟子ヨハネも、そして悪魔自身も聖書の中で言及しています。
わたしたちが神から出ており、全世界が邪悪な者の配下にあることを知っています。
ヨハネ一 5:19
そして悪魔は言った、「この権威すべてとこれらの栄光をあなたに上げましょう。それはわたしに渡されているからです。だれでもわたしの望む者に、わたしはそれを与えるのです」
ルカ 4:6
この辺の事情をよく分かっていない人は、何か悲惨な出来事があるとすぐ神を持ち出す傾向にあるようです。
「神はどこにいるのか?」「神は何をしているのか?」「神はいない」などなど。
聖書の世界観を前提とするなら、現在の人類の営みに関して、そこで何がなされ何が起ころうと神は一切関係ありません。
聖書の神を持ち出すのであれば、当然ながら神と一緒に悪魔をも持ち出すべきであり、人類に対する支配権は悪魔の方にあるわけです。
有名な哲学者フリードリヒ・ニーチェは「神は死んだ」と言い、無心論者も「神はいない」と言っています。これはある意味で正しい。
しかしそれは、神が存在しないという意味ではありません。私たち人類の営みに神は干渉していない、干渉できないという意味です。
実際、イエス・キリストもこの点をよく強調していました。「主人は外国に旅行に出かけています (マタイ25章)」と。
つまり、ちょうどあなたが自宅を不在にして海外旅行に出かけている時と同じように、神も、そしてキリストもこの世界を不在にしておられます。
この世界のオーナーは悪魔であり、神とキリストは不在である。
だからこそ、この世界は想像を絶するほどの悲しみと苦しみで満ち溢れているわけです。
これが聖書の示す世界観です。
聖書の神は人間に似ている
「まさか・・神ってそんなもんなの?」「神に不可能はないんじゃないの?」と言った声が聞こえてきそうですね。「私の知ってる神はそんなんじゃないぞ」という声が。
このように考えてしまう気持ちもよく分かりますが、このように考える方は「聖書の神」のイメージに関して大きな誤解をしています。
そんな誤解を正す上で、さらに聖書が示すもう1つの重要な世界観があります。
それは、私たちが考える以上に「神」は人間的であり、逆に、私たちが考える以上に「人間」は神に近い存在、神と対等な存在だという世界観です。
「わたしたちの像に、わたしたちと似た様に人を造ろう」。そうして神は人をご自分の像に創造された。
創世記 1:26
わたし自ら言った、「あなた方は神であり、あなた方は皆、至高者の子らである。
詩篇 82:6, ヨハネ 10:34,35
何世紀にも及ぶキリスト教の世界的な拡大に伴って、神は(そしてキリストは)大いに神格化されてきました。
そしてこの度が過ぎる神格化は「人間は神の考えを絶対に理解できない」とか「人間は決して神の域に到達できない」といった度がすぎる発想の元凶となってきました。
これは神と人との間に壁を設ける発想、神を人から隔離してしまう発想です。
しかしこの発想は大いに間違っています。聖書的ではありません。
上記に挙げた2つの聖句の通り、人間とはむしろ神に似せて造られた存在、キリストが認める通り、神にかなり近い同族関係なのです。
聖書的には本来、神と人間とは非常に似ています。
ゆえに私たち人間が強い好みやこだわりを持っているのと同様、人間のオリジナルである神も一個人として強い好みやこだわりを持っているのです。
例えば「律法」は神の強い好みやこだわりのカタマリですし、神は悪魔たちの言い分を、そして反逆を繰り返す古代イスラエルの言い分でさえ無視できませんでした。
ですから「神に不可能はない」とか「神はなんでもできる」という神の一般的なイメージは間違っています。
神は私たちと同じように両手を上げて喜んだり、唇を噛み締めて悔しがったり、人目を忍んで涙を流したりされるのです。
そして私たち人間と似ているがゆえに、神も当然ながら「やりたくても事情があってできない」という苦しい状況におかれることが多々あるのです。
*ちなみに、上記でしたように「神と人間を重ねて認識すること」がグノーシス主義や神秘主義のそもそもの源流です。
聖書の神は苦労の連続
そもそも、聖書の神は古代イスラエル国民と深く関わっていた紀元前から大きな不自由と苦労を強いられてきたと言えるでしょう。
むしろ聖書が示すところによると、神の計画がスムーズに進むことの方がむしろ稀です。
神が自分の顔に泥を塗られ、深く傷つけられ、ひどく心を痛めておられる様子は、ヘブライ語聖書の本当に至る所に描写されています。
たまに「旧約聖書の神はすぐに民族を滅ぼすから残酷だ」というような意見を耳にしますが、それは大きな間違いです。
と言うか、そのような発言をする人は単に聖書の時代背景に関して無知なだけに過ぎません。
なぜなら、旧約聖書の中で神が滅ぼす民族は決まってバアル神の為に子供を焼くといった非常に恐ろしい民族的な習慣を持っていたからです。
それとも「神は残酷だ」などと言う人は「バアル神の為に子供を焼くことに賛成だ」とでも言いたいのでしょうか。そんな訳ないでしょう。
神は古代イスラエルを利用して、野蛮な民族を裁いていただけに過ぎません。
むしろ、そういった野蛮な民族に対してさえも神は裁きの前に40年間もの執行猶予を与えたりしています。これでも「残酷」なのですか?
本当にヘブライ語聖書に精通しているのであれば、その中に見えてくるものは「残酷な神の姿」などではありません。
そこに見えてくるものは、古代イスラエル国民に何度も裏切られる「可哀想な神の姿」です。
この点は、民数記14章に記録されているモーセとのやりとりからも確認できます。
神は古代イスラエル国民が自分との契約を何度も破り、自分の名誉を何度も傷つけたので「モーセの子孫からまた新しく国民を作りたい」とモーセに愚痴をこぼしたことがありました。
神が愚痴をこぼすのです。
これが聖書の世界観であり、聖書が示すところの神の姿です。
エホバの証人が強調する「完全無欠な神」のイメージとは大分違いますね。完全無欠ではあるのでしょうが決して順風満帆ではない。
そして、この苦しい神の姿の延長線上に私たちが住む今の世界があるのです。
それにしても、なぜ神はこの地を不在にしているのでしょうか。なぜ神は悪魔に人類の所有権を譲渡してしまったのでしょうか。
現時点では「神なりの苦境があり、神なりの計画がある」ことを押さえておけば良いでしょう。
忘れないで下さい。
聖書の神はあなたと同じように一個人としての強い好みやこだわりをお持ちです。
あなただって個人的な事情、そして考えに基づいて計画を練ったり行動を起こしたりするはず。神もあなたと同じです。
いずれにせよ、
古代イスラエル国民との契約を完全に破棄した西暦1世紀から21世紀の現在に至るまで、神はただ聖書のみを地上に残し不在です。
彼らにはモーセと預言者たち(聖書)がある。それに聴き従えばよい。
ルカ 16:19~31
これが聖書の示す世界観です。
2. 神の願いは昔から「祭司の王国」が完成すること
先に言及したように、現在、この世界のオーナーは悪魔たちです。
そして悪魔たちから所有権を取り戻すため、そして新しい天と新しい地を実現させるために神が昔から必要としているのが「祭司の王国 (出エ9:6)」の確立です。
なぜ神は「祭司の王国」を必要としているのでしょうか?
この点を理解するために非常に重要になってくるのが「古代イスラエル国」という存在です。
神がこの古代イスラエルを設置した理由とその役割、これを詳細に説明できるエホバの証人がほとんどいないことは悲劇としか言いようがありません。
なぜなら、これこそが聖書の中でもっとも重要で、もっとも中心的なテーマだからです。
この聖書の核心を全く分かっていない点を見ても、エホバの証人たちの教えは大いに偏っているもの、聖書の本筋からかなり逸れたものだと分かるでしょう。
ではここで、エホバの証人たちが全く分かっていない聖書の核心、古代イスラエル国の設置の理由とその役割を確認しておきましょう。
詳細は後述しますので、まずは以下の流れを確認して下さい。
ちなみに、あの分厚い聖書すべてを読むのが面倒な人はこれだけでも把握しておいて下さい。
この流れが聖書全体の核心ですから。
古代イスラエル国が設置された理由とその役割、期待されていた流れは以下です。
- 天使長だったサタンが人類に対して「神」になることを目論む (エゼ28:12-17)
- 天使長だったサタンは神の「神権」に対して異議申し立てを行う (イザ14:12-14)
- 人類の始祖アダムはサタンに誘導されサタンの共犯者となる (創3:1-6)
- 人類は神の支配権から外れる (創3:23)
- 神は自分が巻き込まれた紛争を解決するため「祭司の王国」を発案する (創3:15)
- サタンと仲間たちは人類を自分たちの配下に置く (創10:8~12)
- 神はアブラムに協力を要請する (創12:1~3)
- 神はアブラム一族が大きくなったので古代イスラエル国を建国 (出エ19~24)
- 神はこの国家をそのまま「祭司の王国 / 花嫁」にしようと考える
- 国民たちは「花嫁」の資格を維持するため律法を守り続ける必要があった (モーセ五書)
- 「花婿」が地上に降りてくる頃には「花嫁」は満員となり支度を整えている(はずだった)
- 「花婿」と「花嫁」とが1体となり神と元天使長サタンたちの法廷紛争の調停を行う
- 神はサタンから人類に対する神権を取り戻し「新しい天と新しい地」をスタートする
上記13項目が「聖書」の核心的な流れ、古代イスラエル国が設置された理由とその役割です。
聖書の核心がここまで丁寧に示されることは稀でしょうから、上記の内容に新鮮さを感じる人は多いでしょうね。
さて、
古代イスラエル国民たちは神が巻き込まれた紛争、つまり神と悪魔たちとの法的紛争を公正な第三者として調停するという、極めて輝かしい職務につくことが期待されていました。
古代イスラエル国民たちは「祭司」、つまり現代の法廷闘争でいうところの「調停人」の役割につくことが求められたわけです。
裁判所の調停人とは、法的な紛争状態にある2者間のために公正な第三者となり、解決の手続き、あるいは仲裁を行うために裁判所から選任される人たちのことです。
AさんとBさんが法的に大ゲンカをした場合、その大ゲンカとは無関係なCさんが公正な第三者として間に入って仲裁をする、調停人とはこのCさんのことです。
ちなみに日本の法律でも、裁判所から選任される人たちで構成されるグループを「調停委員会」と呼んだりします。
そして、この調停委員会に選任されるためには良識を持つ優秀な専門家など、一定の高度な資格が必要になるわけです。
調停委員は,調停に一般市民の良識を反映させるため,社会生活上の豊富な知識経験や専門的な知識を持つ人の中から選ばれます。
最高裁判所「調停委員」
具体的には,原則として40歳以上70歳未満の人で,弁護士,医師,大学教授,公認会計士,不動産鑑定士,建築士などの専門家のほか,地域社会に密着して幅広く活動してきた人など,社会の各分野から選ばれています。
そして、神ご自身が悪魔たちとの法的紛争を解決するためにずっと昔から欲しがっている優秀な調停委員会、これがつまり祭司の王国です。
神の調停委員会は以下のような難しい審議を扱うことになっています。
- 悪魔たちが神の神権に異議申し立てをしている件
- 始祖アダムが意図的に神の権利を侵害した件
- 堕天使たちや悪い人間たちが犯してきた悪事
では、神が古代イスラエル国民と結んでいたこの契約について、もう一度しっかり聖書の中から確認しておきましょうか。
出エジプト記の中には古代イスラエルの建国の様子が詳しく記録されています。
実はここに、神が古代イスラエル国民たちに対して結んだ契約の具体的な内容が書かれています。
この箇所は聖書全体の中でも非常に重要な箇所です。注目して下さい。
エジプトの地を出た後、第三の月のその同じ日に、イスラエルの子らはシナイの荒野に入った。・・そしてモーセはまことの神のもとに上って行った。
するとエホバは山の中から彼に呼びかけてこう言われた。「・・それで今、もしわたしの声に固く従い、わたしとの契約をほんとうに守るなら、あなた方はあらゆる民の中にあって必ずわたしの特別な所有物となる。
・・そしてあなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの子らにあなたの言うべき言葉である」
出エジプト記 19:1-7
そこでモーセはエホバのすべての言葉を書き記した。・・最後に彼は契約の書を取り、それを民の耳に読み聞かせた。
すると彼らは言った、「エホバの話されたすべてのことをわたしたちは喜んで行い、またそれに従います」。
そこでモーセはその(雄牛の)血を取り、それを民に振り掛けて、こう言った。「さあ、これらのすべての言葉に関してエホバがあなた方と結ばれた契約の血です」
出エジプト記 24:4-8
このようにして古代イスラエル国民は誕生しました。
諸説はありますが、この出来事はおおよそ紀元前1500年頃のこととされています。これはイエス・キリストが誕生する実に1500年以上も昔のことです。
引用1つ目の下線部に注目して下さい。出てきましたねキーワードが。
あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。
出エジプト記 19:1-7
ここでのポイントは、古代イスラエル国民たちは神に対して祭司、つまり調停人になることが期待されていたという点です。
聖書の中で「祭司」というと、どうしてもソロモン神殿なんかで牛の犠牲を捧げているレビ族ばかりが思い浮かぶでしょうが、彼らは単なる役者に過ぎません。
聖書の中で第一に注目すべき「祭司」とは、単なる役者である地上のレビ族の方ではなく、レビ族に演じられていた側、つまり天の祭司たちの方です。
つまり聖書の中に出てくる「祭司」には以下の2種類があり、後者の方が本物です。
- 幕屋やソロモン神殿などで劇を演じていた地上の役者
- 実際に天で神に対して法的な調停を行う天の祭司たち
現代人が「祭司」と聞くと、どうしても神社や神殿等で神仏に対して特別で怪しげな祭儀を行う人たちのことを思い浮かべてしまうでしょう。
しかし少なくとも幕屋やソロモン神殿で働いていた祭司たちは違います。
彼らは文字通り役者でしたし、幕屋やソロモン神殿も文字通り劇場の意味合いが強い施設でした。
キリストから叱責されたパリサイ派や律法教師たちも大いに勘違いしていた点ですが、この点に関してはパウロが「ヘブライ人への手紙」で詳しく解説しているので参照して下さい。
話を戻しましょう。
さらに出エジプト直後、神と古代イスラエル国民との契約で注目できるポイントがあります。
それは次の点です。
最後に彼は契約の書を取り、それを民の耳に読み聞かせた。
出エジプト記 24:3-8
つまり、神と古代イスラエルとの契約は単なる口約束や、古代イスラエルの側の一方的な思い込みなどではなかった、という点です。
引用太字にあるとおり、神と古代イスラエル国民との契約関係は「契約の書」というかたちで明確に文書化されています。
明確に文書化された契約の書を神から直接受けたこの瞬間から、古代イスラエルは「神の国民」を公式に名乗るようになりました。
そして古代イスラエル国民にはその資格が実際に神から与えられており、このゆえに古代イスラエルは正真正銘の「神の組織」でもあったわけです。
神から任命されるというのは本来こういうことです。エホバの証人とはえらい違いですね。
ちなみに、祭司の王国の構想が初めて聖書に登場する箇所も確認しておきましょう。
祭司の王国の構想は、エデンでの悪魔の謀反の直後、そしてそのしばらく後になって神がアブラムに協力を要請している部分で言及されています。
わたしは、お前と女との間、またお前の胤と女の胤との間に敵意を置く。彼はお前の頭を砕き、お前は彼のかかとを砕くであろう。
創世記 3:15; ローマ 16:20
そして、あなたの胤によって地のすべての国の民は必ず自らを祝福するであろう。
創世記 22:18
そしてこの構想の実現は、聖書冒頭の「出エジプト記」から聖書巻末の「啓示の書」まで一貫して変わらない正に神の悲願なのです。
以下、確認して下さい。
あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。
出エジプト記 19:1-7
あなたはほふられ、自分の血をもって、あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして、彼らをわたしたちの神に対して王国また祭司とし、彼らは地に対し王として支配するのです。
ヨハネへの啓示 5:6-10
キリストが地上に降りて来て自分の血を流された理由にも注目して下さい。
キリストが血を流された理由、それは自分の血を対価として世界中から人々を買い取り、彼らを神に対して祭司の王国とするためでした。
確かにキリストは人類の贖罪のために血を流されましたが、本命は人類の贖罪ではありませんでした。そうではなくて本命はその先、悪魔と仲間たちの悪事を裁く祭司の王国の確立の方にあったわけです。
この点は非常に多くのクリスチャンも誤解している点ですので覚えておきましょう。
という訳で、
ここまで説明すれば十分でしょう。いかに神が祭司の王国を必要としておられるかが。
これほどまでに神が祭司の王国を必要としておられる理由をまとめておきます。
- 自分が巻き込まれた法的紛争を、第三者機関を利用してあくまでフェアに解決するため
- 法的に悪魔から神権を取り戻し、誰もが納得する形で新しい天と地をスタートさせるため
忘れないで下さい。
聖書の世界観によると、神は天でかなりの大所帯をお持ちです。
その大所帯は少なく見積もって数億。これに加えて自分に異議申し立てをしている悪魔と堕天使たちも数多くいます。
フェアネス (公正) を重んじる神があえてご自身でこの件を取り扱わず、それを地に降ったみ子とその花嫁たちに扱わせようとは、なかなか深遠なお考えではないでしょうか。
父はだれひとり裁かず、裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。
ヨハネ 5:22
あなた方は、聖なる者たちが世を裁くことを知らないのでしょうか。それで、世はあなた方によって裁かれる事になっているのに、あなた方はごく些細な事柄を審理することもできないのですか。
あなた方は、わたしたちがみ使いを裁くようになることを知らないのですか。では、どうして今の生活上の事柄を裁かない事があるでしょうか。
コリント一 6:2,3
これが古代イスラエル国が設置された理由とその役割です。
そしてエホバの証人たちはこの点をよく分かっていません。まぁ、多くの一般のクリスチャン達も同じだと思いますが。
聖書の中で1番重要なテーマなのに。
「祭司の王国」唯一の修正点
当初、神の調停委員会の成員として選任されるためには以下2つの資格が必要でした。
- アブラハムの血を引いていること
- 調停人として優良な資格を満たしていること
つまり、祭司の王国はもともと古代イスラエルの優良な人員で構成される予定でした。
先に挙げた出エジプト記の記録の中でも、神が契約を取り交わした相手が古代イスラエル、つまりアブラハムの子孫たちだったことを思い出して下さい。
あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの子らにあなたの言うべき言葉である。
出エジプト記 19:6
ご自身のみ名で著名した正式な契約だったので、神は1500年もの長期間にわたって祭司の王国の成員を古代イスラエル国民たちによって構成しようと懸命な呼びかけを続けました。
しかし、それは叶いませんでした。
愚かにも古代イスラエルは神との契約を1500年間にもわたり破り続けました。
実際、ヘブライ語聖書の約70%はいかに古代イスラエルが神との契約を破り続け、いかに神を侮辱し続けたかの悲しい記録です。
挙げ句の果ては、紛争仲裁の立役者、調停委員会の委員長、祭司の王国の心臓部とも言える大祭司イエス・キリストを殺害してしまう始末です。
西暦33年、古代イスラエル国民は自分たちの心臓を刺し殺したわけです。
こうして、古代イスラエルは神に対して祭司の王国になるという輝かしい資格を失いました。古代イスラエル国民の大失態です。
しかし神には祭司の王国が必要です。
未だ「花嫁」は支度を整えておらず、それは満員となる必要があるのです。
さて、神はどうされたでしょうか?
イスラエル国民の大失態を解決するために、神は「祭司の王国」の条件を修正されます。
つまり先に挙げた2つの条件のうち、上1つ目が削除されました。
アブラハムの血を引いていること- 調停人として優良な資格を満たしていること
聖書巻末の書「ヨハネへの啓示」の中でも、祭司の王国の招待が古代イスラエル国民から、諸国の人たちへと広く開放されていることに注目して下さい。
旧約:
あなた方は、わたしに対して祭司の王国、聖なる国民となる。これが、イスラエルの子らにあなたの言うべき言葉である。
出エジプト記 19:6
新約:
あなたはほふられ、自分の血をもって、あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして、彼らをわたしの神に対して王国また祭司とし、彼らは地に対し王として支配するのです。
ヨハネへの啓示 5:9,10
こうして神は、アブラハムの子孫たちから祭司を集めるという契約を「旧い契約」として破棄し、世界中の人々から祭司を集めるという契約を「新しい契約」として修正しました。
このようわけで聖書の名称に関しても大祭司の殺害以前、つまり契約対象がまだ古代イスラエルにあった聖書が『旧約聖書』と呼ばれます。
一方で、大いなる大祭司の殺害以降、つまり契約対象が世界中の人々に切り替わった聖書が『新約聖書』と呼ばれているわけです。
ちなみに、この修正に従ったのが当時のキリストの弟子たち(後のキリスト教徒)で、この修正を拒んだのが当時の宗教指導者と古代イスラエル国民たち(後のユダヤ教徒)です。
古代イスラエル国民たちはどこまでも強情ですね。
現在のユダヤ教徒たちが新約聖書を絶対に認めていないのも、未だに旧約は有効であり、神の目が自分たちアブラハムの子孫に向けられているのだと固く信じているからです。
さて、
旧約から新約への切り替わりが実際に実行されたのは、厳密に言えば「大祭司殺害事件」の3年後、つまり西暦36年頃のことでした。
イタリヤ隊の軍人でコルネリオというクリスチャンが、イスラエル国民ではない外国人としては初めて祭司の王国、神の調停委員会の成員として神から招集されています (使徒10章)。
そして、大祭司キリストがもっぱら扱っていたテーマもこの点、つまり条件の修正でした。
イエスの宣教のテーマが「神の王国」だったという点に関しては、エホバの証人もかろうじて正しく認識はしていますが、これだけでは全然ダメです。
イエスの宣教のテーマは神の王国に関する「条件の修正」だったこと、その修正点はたった1つで「人種の解禁」だったこと、ここまで説明できなくてはいけません。
まぁ早い話、イエス・キリストは当時のユダヤ人たちをクビにするために天から降りて来たわけですね。「あなたたちは千年以上も酷い契約違反を繰り返したのでクビですよ」と。
「次の新しい契約からはあなた方ユダヤ人だけじゃなく、諸国の人たちも調停委員会メンバーになれますのでその辺りよろしくお願いします」と、このようにお知らせに来たわけです。
これに対して当時の宗教指導者などエリートユダヤ人たちが大いに逆ギレしてイエス・キリスト委員長を処刑してしまった、福音書をあえて単純化するとこうなるかと思います(ルカ20:9-16)。
イエスの宣教のテーマが条件の修正であったからこそ、イエスがおもに遣わされたのは「囲いの中の羊」つまり古代イスラエル国民であったにも関わらず「王国のこの良いたよりは人の住む全地で宣べ伝えられる」必要があった、とこのようになるわけです。
エホバの証人は「水をぶどう酒に変えた」とか「海の上を歩いた」とか「忠実で思慮深い奴隷はいったい誰でしょうか」といった自分たちの好みにばかり注目しているため本来のキリストの宣教テーマに気付きません。
なんと残念なことでしょう。
しかしながら、イエス・キリストが福音書のいたるところで繰り返し説明しているのは正にこのことです。
特にたとえ話を使った文脈に多く見られます。
ここではごく一部の例を挙げておきますが、しっかりと四福音書の全文を読んでご自身で確認しておいて下さい。
このゆえにあなた方に言いますが、神の王国はあなた方から取られ、その実を生み出す国民に与えられているのです。
マタイ 21:33~43
招いておいた者たちはそれに値しなかった。それゆえ、市外に通ずる道路に行き、だれなりとあなた方の見つける者を婚宴に招きなさい。
マタイ 22:1~13
エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石打ちにする者よ。
わたしは幾たびあなたの子供たちを集めたいと思ったことでしょう。めんどりがそのひなを翼の下に集めるかのように。
しかし、あなた方はそれを望みませんでした。見よ、あなた方の家はあなた方のもとに見捨てられています。
マタイ 23:37,38
また、わたしにはほかの羊がいますが、それらはこの囲いのものではありません。それらもわたしは連れて来なければならず、彼らはわたしの声を聴き、一つの群れ、一人の羊飼いとなります。
ヨハネ 10:16
条件の修正がキリストの宣教テーマだったので、ペテロやパウロといった初期クリスチャンたちも当然のことながらこの修正をきちんと踏襲しています。
エホバの証人たちはここでも理解が及ばないようですが、使徒たちやパウロが繰り返し説明しているのもこのこと、つまり条件の修正でした。
該当箇所を一部あげておきます。
それで、パウロとバルナバは大胆に語って言った、「神の言葉はまずあなた方に対して語られることが必要でした。
あなた方がそれを押しのけて、自らを永遠の命に値しない者と裁くのですから、ご覧なさい、わたしたちは諸国民の方に向かいます」
使徒 13:46
ですから、わたしたちの決定は、諸国民から神に転じてくる人々を煩わさず、ただ、偶像によって汚された物と淫行と絞め殺されたものと血を避けるよう彼らに書き送ることです。
使徒 15:19,20
その憐れみの器とは神が栄光のためにあらかじめ備えられたもの、すなわちわたしたちであり、ユダヤ人だけでなく、諸国民の中からも召されているのです。
ローマ 9:23,24
ほかの世代において、この奥義は、今その聖なる使徒や預言者たちに霊によって啓示されているほどには、人の子らに知らされていませんでした。
すなわちそれは、諸国の人々が良いたよりを通してキリスト・イエスと結ばれて、共同の相続人、同じ体の成員、わたしたちと共に約束にあずかる者となる、ということです。
エフェソス 3:5,6
ゆえに、アブラハムの子孫ではない外国人第1号のコルネリオが召された西暦1世紀から私たちが生きる21世紀の現代に至るまで、
神は自分の紛争を調停してくれる「祭司の王国」の成員が世界中から集まってくるのをただただ待っておられるわけです。
そして悪魔は、自分の悪事が追及され厳しく裁かれるその時を先延ばしにしようと、必死に人類を騙し盛大な悪あがきをしているわけです。
しかし大祭司の血はすでに神のみ前に注ぎ出され人類の贖罪は完了しております。
あとは調停委員会つまり祭司の王国メンバーの数がそろうだけ、神が抱える法的紛争が彼らによって解決されるだけなのです。
さて、彼ら(イスラエル)の踏み外しが世にとって富となり、彼らの減退が諸国の人たちにとって富となるのであれば、彼らの数のそろうことはなおのことそのようになるはずです。
ローマ 11:12
わたしはあなた方がこの神聖な奥義について無知でいることがないようにと願うのです。すなわち、諸国の人たちが入ってきてその人たちの数がそろうまで、感覚の鈍りがイスラエルに部分的に生じ、こうして全イスラエルが救われることです。
ローマ 11:25,26
そして、彼らは大声で叫んで言った、「聖にして真実な、主権者なる主よ、あなたはいつまで裁きを控え、地に住む者たちに対するわたしたちの血の復しゅうを控えておらえるのでしょうか」。
すると、白くて長い衣がその一人一人に与えられた。そして彼らは、自分たちが殺されたと同じように殺されようとしている仲間の奴隷また兄弟たちの数も満ちるまで、あとしばらく休むように告げられた。
啓示 6:9~11
つまり、神の調停委員会のメンバーは現在も募集中なのです。
神は「地上に組織」など必要としない
いかがでしょうか?
聖書の核心的テーマをおさえると、あらためて神が地上に何かを必要としている訳ではないことが分かります。
神が欲しいのは自分の紛争を調停してくれる祭司の王国であり、これは最初から何も変わっていません。
ただ過去に1度だけ、祭司の王国の人種を解禁した、ただそれだけの事なのです。
エホバの証人たちは「神は地上に新しい組織を必要としておられる!私たちが唯一のそれなのだ!」と声高に主張しております。
しかし神からすれば「地上に組織が必要?はて?」でしょうね。
ちなみに、祭司の王国という聖書の核心的テーマを踏まえて考えた場合、エホバの証人たちの信条は以下のようなふざけたものになります。参考にどうぞ。
- 紀元前、神は「祭司の王国」を必要とされたのでアブラムに協力を要請した
- 西暦1世紀、アブラハムの子孫が「大祭司」を殺害してしまったので人種を解禁した
- 西暦20世紀、神は「地上のすべての持ち物を任せるため」地上に組織を任命した
いやいや、明らかに3番目は異物です。
そもそも地上のすべてのものは悪魔に譲渡されているのであって (ルカ4:6)、唯一の所有物だった古代イスラエル国民も神はとうの昔に放棄しました。
つまり、この地上に神の持ち物など何一つ残っていない。だから「持ち物」もクソもない。
それなのに「地上のすべての持ち物を任せる」とは一体どのような意味なのでしょう?
海老名市にあるソロモン神殿の足元にも及ばないコンクリートのことでしょうか?
それともアメリカの偽預言者に騙されている可哀想な羊たちのことでしょうか?
まぁこの点に関しては次の章で詳しく扱います。
さて、そろそろ聖書の核心の最後です。
祭司の王国の定員が満員となり「花嫁」がその支度を整えたら、その次にはいったい何が待ち受けているのでしょう。
主の審判です。
つまり調停委員長キリストと、その王国の調停人集団とによる天界と人間界を広く巻き込んだ宇宙規模の大裁判です。
あなたはほふられ、自分の血をもって、あらゆる部族と国語と民と国民の中から神のために人々を買い取ったからです。そして、彼らをわたしの神に対して王国また祭司とし、彼らは地に対し王として支配するのです。
啓示 5:9,10
3. 将来の「主の審判」では全人類がひとりひとり裁かれる
ルネサンス期に活躍した巨匠ミケランジェロ・ブオナローティが描いた『最後の審判』はあまりにも有名でしょう。
このフレスコ画は1536年頃からバチカンにあるシスティーナ礼拝堂の正面の壁に描かれ、今でもその場所を訪れる観光客たちに感動を与えています。
イエス・キリストが目に見える状態でこの地上に降りてきて、世界規模の裁判を始めるというものはキリスト教の教義の中ではかなりメジャーなものだと思います。
宗教画の中でも昔から描かれ続けてきた題材です。
一方で、エホバの証人はイエス・キリストが目に見える状態で地上に降りてくることも、自分たちが一般人と同じようにキリストの裁判にかけられるということも知りません。
彼らはそのようには認識していません。
むしろ裁判などなしに救われて、兄弟姉妹たちと一緒に楽園に行くと信じております。
しかしながらキリスト教の一般的な教義からすると、キリストは目に見える状態で地上に降りてきますし、今まで存在した全人類ひとりひとりを平等に裁判にかけます。
百聞は一見にしかず、論より証拠。
ということで以下、主の審判に言及している新約聖書の聖句をほぼ全て挙げておきます。
旧約聖書まで含めたらキリがありませんので今回は新約聖書だけに限定しますが、とても大切な部分ですのでしっかりと確認して下さい。
あなた方に言いますが、人が語るすべての無益な言葉、それについて人は裁きの日に言い開きをすることになります。
マタイ 12:36
それゆえ、人が、「見よ、彼は荒野にいる」と言っても、出て行ってはなりません。「見よ、奥の間にいる」と言っても、それを信じてはなりません。稲妻が東の方から出て西の方に輝き渡るように、人の子の臨在もそのようだからです。
マタイ 24:26,27
またその時、人の子のしるしが天に現れます。そしてその時、地のすべての部族は嘆きのあまり身を打ちたたき、彼らは、人の子が力と大いなる栄光を伴い、天の雲に乗ってくるのを見るでしょう。
マタイ 24:30
人の子がその栄光のうちに到来し、またすべてのみ使いが彼と共に到来すると、そのとき彼は自分の栄光の座に座ります。そして、すべての国の民が彼の前に集められ、彼は、羊飼いが羊をやぎから分けるように、人をひとりひとり分けます。
マタイ 25:31,32
それでも、あなた方に言っておきますが、今後あなた方は、人の子が力の右に座り、また天の雲に乗って来るのを見るでしょう。(敵に対する発言)
マタイ 26:64
またその時、人々は、人の子が大いなる力と栄光を伴い、雲のうちにあって来るのを見るでしょう。
マルコ 13:26
そしてあなた方は、人の子が力の右に座り、また天の雲とともに来るのを見るでしょう。(敵に対する発言)
マルコ 14:62
そのとき彼らは、人の子が力と大いなる栄光を伴い、雲のうちにあって来るのを見るでしょう。
ルカ 21:27
父はだれひとり裁かず、裁くことをすべて子にゆだねておられるのです。(敵に対する発言)
ヨハネ 5:22
そしてまた、わたしが行ってあなた方のために場所を準備したのなら、わたしは再び来て、あなた方をわたしのところに迎えます。
ヨハネ 14:3
ガリラヤの人たちよ、なぜ空を眺めて立っているのですか。あなた方のもとから空へ迎え上げられられたこのイエスは、こうして、空に入っていくのをあなた方が見たのと同じ様で来られるでしょう。
使徒 1:11
以上が、イエス・キリストご自身とみ使いの発言です。
「雲のうちにあって来るのを見る」ことが繰り返されています。弟子たちに対しても、そして敵たちに対しても同じように「来るのを見る」と発言していることに注目して下さい。
では引き続きキリストの死後、キリストの弟子たちの発言にも注目してみましょう。
彼らギリシャ語聖書の筆者たちも一貫してキリストの臨在が目に見えること、そして私たちすべてがキリストに裁かれることに言及しています。
またこの方は、民に宣べ伝えるように、そして、これが生きている者と死んでいる者との審判者として神に定められた者であることを徹底的に証しするようにと、わたしたちにお命じになりました。
使徒 10:42
律法を行う者が義なる者と宣せられるからです。・・神がキリスト・イエスを通して人類の隠された事柄を裁く日に、このことはなされます。
ローマ 2:13~16
わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つことになるのです。・・わたしたちは各々、神に対して自分の言い開きをすることになるのです。
ローマ 14:10~12
それゆえ、定められた時以前に、つまり主が来られるまでは、何事も裁いてはなりません。主は、闇の隠れた事柄を明るみに出し、また心の計り事を明らかにされます。
コリント一 4:5
わたしたちは皆キリストの裁きの座の前で明らかにされなければならないからです。こうして各人は、それが良いものであれ、いとうべきものであれ、自分が行ってきたことにしたがい、その体で行った事柄に対する自分の報いを得るのです。
コリント二 5:10
それは、あなた方がより重要な事柄を見きわめるようになり、こうして、キリストの日に至るまできずなく、他の人をつまづかせることなく
フィリピ 1:10
こうしてわたしはキリストの日に、自分が無駄に走ったり無駄に骨折ったりしなかったという、歓喜の理由を持てるのです。
フィリピ 2:16
そのみ子の天からの現れを持つようになったかを、彼ら自身が語り伝えているからです。そのみ子は神が死人の中からよみがえらせた方、すなわちイエスであって、来らんとする憤りからわたしたちを救い出してくださる方なのです。
テサロニケ一 1:10
そして、あなた方兄弟たちの霊と魂と体があらゆる点で健全に保たれ、わたしたちの主イエス・キリストの臨在の際にとがめのないものでありますように。
テサロニケ一 5:23
一方患難を忍ぶあなた方には、主イエスがその強力なみ使いたちを伴い、燃える火のうちに天から表し示される時、わたしたちとともに安らぎをもって報いることこそ、神によって義にかなったことであると言えるからです。
テサロニケ二 1:7
わたしたちの主イエス・キリストの顕現の時まで、汚点のない、またとがめられるところのない仕方でおきてを守り行ないなさい。その顕現は、幸福な唯一の大能者がその定めの時に示されるのです。
テモテ一 6:14,15
わたしは、神のみ前、また生きている者と死んだ者とを裁くように定められているキリスト・イエスのみ前にあって、またその顕現と王国とによって、あなたに厳粛に言い渡します。
テモテ二 4:1
わたしは戦いを立派に戦い、走路を最後まで走り、信仰を守り通しました。今から後、義の冠がわたしのために定め置かれています。それは、義なる審判者である主が、かの日に報いとしてわたしに与えてくださるものです。
テモテ二 4:7,8
そしてわたしは、幸福な希望と、偉大な神およびわたしたちの救い主キリスト・イエスの栄光ある顕現とを待っているのです。
テトス 2:13
そして、人がただ一度限り死に、そののち裁きを受けることが定め置かれているように、キリストもまた、多くの人の罪を負うため、ただ一度かぎりささげられました。そして、彼が二度目に現れるのは罪のことを離れてであり、それは、自分の救いを求めて切に彼を待ち望む者たちに対してです。
ヘブライ 9:27,28
ですから、兄弟たち、主の臨在の時まで辛抱しなさい。ご覧なさい、農夫は地の貴重な実を待ちつづけ、早い雨と遅い雨があるまで、その実について辛抱します。
ヤコブ 5:7
ですが、わたしの兄弟たち、何よりも、誓うことをやめなさい。・・むしろ、あなた方の、「はい」は「はい」を、「いいえ」は「いいえ」を意味するようにしなさい。あなた方が裁きのもとに倒れることのないためです。
ヤコブ 5:12
しかしそうした人々は、生きている者と死んだ者とを裁く備えのある方に対して言い開きをすることになるでしょう。
ペテロ一 4:5
では今、子供らよ、彼と結ばれたままでいなさい。彼が現されるとき、その臨在の際に、わたしたちがはばかりのない言い方ができ、恥を被って彼から退かなくてもよいようにするためです。
ヨハネ一 2:28
イエス・キリストは神の子であられるとの告白をする者が誰であっても、神はそのような者とずっと結びついておられ、その人は神と結ばれているのです。
・・こうして、わたしたちに関して愛は全うされました。それは、わたしたちが裁きの日に、はばかりのない言い方ができるようになるためです。
ヨハネ一 4:15~17
自分を神の愛のうちに保ちなさい。そして、永遠の命を目ざしつつわたしたちの主イエス・キリストの憐みを待ちなさい。
ユダ 21
見よ、彼は雲と共に来る。そして、すべての目は彼を見るであろう。彼を刺し通した者たちも見る。また、地のすべての部族は彼のゆえに悲嘆して身を打ちたたくであろう。しかり、アーメン。
啓示 1:7
そして、海はその中の死者を出し、死とハデスもその中の死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いにしたがって裁かれた。
啓示 20:13
見よ、わたしは速やかに来る。そして、わたしが与える報いはわたしと共にある。各々にその業のままに報いるためである。
・・わたしイエスは自分の使いを遣わし、諸会衆のためにこれらの事についてあなた方に証しした。
啓示 22:12~16
これらのことについて証しされる方が言われる、「しかり、わたしは速やかに来る」。アーメン! 主イエスよ、来てください。主イエス・キリストの過分のご親切が聖なる者たちと共にありますように。
啓示 22:20,21
以上です。
文字通りすべてのギリシャ語聖書筆者たちがキリストの臨在、その顕現、その裁判に言及しています。
ギリシャ語聖書では、その全体を通して次のようなことが明確に繰り返されているのです。
- イエス・キリストは目に見える状態で地上に降りてくる
- イエス・キリストは人類すべてをひとりひとり裁判にかける
いかがでしたか?
少しだけ長い章でしたが、ここまで読み進めてきたあなたは、あの聖書を貫いている核心的テーマを把握してしまったはずです。
とても古い書物なのに聖書って興味深いと思われませんか?
聖書の神についてもっと深く知りたいと感じませんでしたか?
そして祭司の王国について、神の調停委員会についてもっと深く学びたいと思われませんか?
もしそうなら嬉しいです。是非ともご自身で聖書の研究を続けて下さい。
あなたは既に聖書の核心を掴んでおりますので、ご自身の研究とその理解はスムーズに進むことでしょう。
- 現在、神は人類に対する支配権を持っていない
- 神の願いは昔から「祭司の王国」が完成すること
- 将来の「主の審判」では全人類がひとりひとり裁かれる
驚愕すべき事実
さてここで、驚愕すべき事実をお伝えしましょう。
なんと、エホバの証人たちは上記に挙げた聖書の核心を知りません。
長年エホバの証人をやっていようと、どれほど頻繁に集会や大会に出席しようと彼らは聖書の核心を教えられることがないからです。
エホバの証人たちが教えられること、それは例えば統治体を信じること、組織の指示に従うこと、会衆内で平和に過ごすこと、などなどです。
この「などなど」の中に聖書の勉強や伝道を頑張ることが入ります。
このような訳で、エホバの証人たちはいつまで経っても聖書の核心に到達することができないのです。決して。
まるで手品のようではないでしょうか?
エホバの証人たちはあれほど聖書の神を愛し、神の子キリストを愛し、あれほど聖書も愛し、研究しているというのに。
どんなに懸命に聖書を研究しても、彼らは前に進むことがありません。まるで回し車の中を懸命に走るハムスターのように。
しかし彼らが「ハムスター」になってしまうのには理由があります。その理由がエホバの証人の弱点だと言えるでしょう。
次章では「主の審判」にスポットライトを当てつつ、エホバの証人が不毛なハムスターになってしまう、その理由について説明します。