3章. エホバの証人の弱点
前章ではギリシャ語聖書から36もの聖句を引用し、文字通り全ての聖書筆者たちが以下の教えを繰り返していることを確認しました。
- 臨在:イエス・キリストは目に見える状態で地上に降りてくる
- 裁き:イエス・キリストは人類すべてをひとりひとり裁判にかける
この2点は聖書の核心を成しており、キリスト教会の教義としても非常に一般的なものです。
実際、西方のカトリック教会も、東方の正教会も、プロテスタント教会の信者たちもそう信じています。つまり、この教義はキリスト教全体の教えとして広く共有されているわけです。
ウィキペディアの「再臨」にも、この点についての説明があったので引用しておきます。
キリスト教の信仰:
キリスト教会には再臨について信仰が存在する。それは、主イエス・キリストが再臨し、世を裁き、神の国を確立するという信仰である(救い主の預言の成就)。キリスト教会の信条であるニカイア・コンスタンティノポリス信条は、「主は、生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られます。その国は終わることがありません。」「光栄を顕して生ける者と死せし者とを審判する為に還た来り、その国、終りなからんを」と告白する。
また西方の使徒信条は「主はかしこより来たりて、生ける者と死ねる者を裁きたまわん」と告白する。
Wikipedia「再臨」
しかし一方で、エホバの証人たちはこの点を受け入れません。むしろ知りません。
何年、いや何十年と集会や大会に出席したところで、この点に気付くことはないでしょう。
ではエホバの証人たちは一体どんなことを教わっているのでしょうか。彼らが集会や大会で学んでいる内容とは一体どんな内容なのでしょうか。
主の審判にスポットライトを当てるとすれば、エホバの証人は以下のように教わります。
- 臨在:
キリストは1914年に目に見えない状態で臨在しており地上に代表者を任命している - 裁き:
自分たちはキリストに裁かれない。裁かれるのはエホバの証人ではない世の人だけ
非常に不可解な内容ですね。
しかしエホバの証人にとってはとても馴染み深い教えだと思います。
しかも、エホバの証人たちはこの教えを聖書の核心的な教えとして固く信じているのです。
しかし前章で確認したように、祭司が世界中から集められている今、神はわざわざ地上に何かを必要としておりませんし、ましてやキリストも自分の代理など任命しておりません。
主の審判で人類すべてが裁かれる点に至っては、聖書の至る所で散見される聖書の基本的なテーマです。
これも前章で確認した通りですね。
エホバの証人の弱点について
さてここからが本題ですが、エホバの証人たちがあれほど聖書を研究しながら、こんなにも聖書とは別次元な世界を生きているのはなぜでしょうか。
聖書をあれほど深く愛し、聖書をあれほど固く信じているというのに。
エホバの証人たちの聖書への愛には凄まじいものがあるでしょう。彼らは聖書を足で踏むくらいなら間違いなく死を選びます。
エホバの証人たちの聖書への信仰は高い評価に値します。彼らはその信仰のために人生の大半を文字通り捧げているのです。
にも関わらず、彼らは決して前に進まないハムスターになっている。そして聖書とは全く別世界を生きている。
この原因は一体なんでしょうか?
聖書の核心を外しており、かつ幸せである。
彼らが聖書とは別世界を生きている最も大きな原因は、これに尽きるでしょう。
つまり彼らは聖書の核心から遠い場所に安息の地を見つけ、そして幸せなのです。
集会や大会で聖書の核心を教えられることもない。本部の統治体も教えてくれない。会衆のベテラン長老も巡回監督たちも教えてくれない。というか彼らも知らない。
それでも彼らは深く満足している。
だからエホバの証人たちは決して前に進むことのないハムスターになってしまい、聖書の核心とは全く別の場所にある「幸せな回し車」の中で懸命に走ってしまうのです。
「僕たちはこんなに一生懸命走っている!」「私たちのこの努力は神に祝福される!」
確かに、彼らは幸せな民族ですね。
彼らの独特な研究手法3選
では具体的に、彼らがどのように聖書の核心を外しているのか、その独特な研究手法を見ていきましょうか。
きっと色々あるのでしょうが、今回は3つほど選んでみました。
例えば、次のような文章が『ものみの塔』誌に載ります。
当時、一つの聖書研究者のグループが、一般的な考えとは違い、キリストの帰還は目に見えないということを識別しました。
イエスは天で即位した後、王として地上に注意を向けるという意味で帰還します。
弟子たちは、目に見えないイエスの臨在が始まったことを、目に見える複合のしるしによって知るのです。ーマタイ 24:3-14
ものみの塔 2005年1月15日号 p15
前章で確認した「キリストの臨在は目に見える」とは真逆の内容が書かれています。
しかし当然ですが「臨在は目に見えない」なんて事は聖書のどこにも書いてません。
さてどう致しましょうか?
ここでエホバの証人たちは彼ら独自の聖書研究の手法を編み出してしまったようです。自分たちの「幸せな回し車」を機能させるために。
この独特な手法により、彼らは聖書の核心を見事に外しつつ、と同時に、聖書から深い満足感を得ることができるようになりました。
① 隅っこ全体手法
ものみの塔の文章の隅っこに聖句の引用が発見されると、それ以前の文章、あるいはそれを含む文章がすべて聖書の教えになってしまうという手法、これが隅っこ全体手法です。
この手法は特に、分厚い聖書を読むのが面倒だと思っているナマケモノ信者たちにピッタリな研究手法だと言えるでしょう。
何と言っても楽なのです。
先ほど挙げた「キリストの帰還は目に見えない」というものみの塔の記事にもこの手法が見事に使われております。
長い説明文の隅っこに「マタイ 24:3-14」という表記が見られますね。
・・目に見えないイエスの臨在が始まったことを、目に見える複合のしるしによって知るのです。ーマタイ 24:3-14(←これ)
ものみの塔 2005年1月15日号 p15
すると、なんということでしょう。
とても薄っぺらい『ものみの塔誌』が世界的な権威を放つあの『聖書』に早変わりです。
そして「キリストの帰還は目に見えない」という間違った教えが自動的に聖書全体の教えになってしまいます。
奇跡ですね笑。
② つまみ食い全体手法
同じような手法としてつまみ食い全体手法もあります。
この手法を使えば、聖句を1つ食べただけで、あたかも聖書全体を食べ切ってしまったかのような深い満足感に浸ることができます。
つまみ食い全体手法が利用されている代表的な聖句は間違いなく次の聖句でしょう。
主人が、時に応じてその召使いたちに食物を与えさせるため、彼らの上に任命した、忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。
主人が到着して、そうしているところを見るならば、その奴隷は幸いです。あなた方に真実に言いますが、主人は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。
マタイ 24:45~47
アメリカの統治体たちがキリストから特別な任命を受けている根拠としてこの聖句がよく利用されますが、この聖句こそつまみ食い全体手法の申し子です。
なぜなら、この聖句たった1つで統治体はキリストのすべての持ち物を任されていることが聖書全体の教えになってしまうのですから。
しかし試しに、つまみ食い全体手法を使わないでこの聖句を読んでみましょうか。読むべき文章は増えてしまいますが、しっかり文章を読むことが聖書研究の基本です。
それゆえ、ずっと見張っていなさい。あなた方は、自分たちの主がどの日に来るかを知らないからです。家あるじは、盗人がどの見張り時に来るかを知っていたなら、目を覚ましていて、自分の家に押し入られるようなことを許さなかったでしょう。このゆえに、あなた方も用意のできていることを示しなさい。あなた方の思わぬ時刻に人の子は来るからです。
主人が、時に応じてその召使いたちに食物を与えるため、彼らの上に任命した、忠実で思慮深い奴隷はいったいだれでしょうか。
主人が到着して、そうしているところを見るならば、その奴隷は幸いです。あなた方に真実に言いますが、主人は彼を任命して自分のすべての持ち物をつかさどらせるでしょう。
しかし、もしそのよこしまな奴隷が、心の中で、「わたしの主人は遅れている」と言い、仲間の奴隷たちをたたき始め、のんだくれたちと共に食べたり飲んだりするようなことがあるならば、その奴隷の主人は、彼の予期していない日、彼の知らない時刻に来て、最も厳しく彼を罰し、その受け分を偽預言者たちと共にならせるでしょう。そこで彼は泣き悲しんだり歯ぎしりしたりするのです。
マタイ 24:42~51
いかがでしょうか?
この聖句が言いたいのは本当に「イエス・キリストは統治体を任命したから統治体に従いなさい」ということなのでしょうか?
いや、この聖句が言いたいのは「イエス・キリストの臨在はいつか分からないから目覚めていなさい」ということではありませんか?
ところが、ほとんどのエホバの証人はイエスの話を最後まで聞きません。
彼らは早々につまみ食いを終えると、聖書をパタンと閉じてどこかへ行ってしまうのです。たぶん集会か奉仕でしょう。
ちなみに、上に挙げた「思慮深い奴隷とよこしまな奴隷」の話はマタイ24章36節から25章30節にまでまたがっている7つの例え話のうちの1つに過ぎません。
この7つある例え話の趣旨は「臨在までずっと見張っている」ことです。エホバの証人たちはたった7つのイエスの例え話さえも聞くに耐えないのでしょうね。
聞くことに遅すぎます。
スーパーの試食コーナーで主婦たちが試食をしている様子を想像して下さい。小さな爪楊枝で、小さな試食をつついている光景が目に浮かぶでしょうか。
エホバの証人の集会も同じです。
彼らがやっているのは聖句のつまみ食いです。
③ 聖書バラバラ手法
聖書の核心を外すため、エホバの証人が好んで使う研究手法の極め付けは聖書バラバラ手法です。
これは聖書をバラバラに分解して研究するという、なんとも薄気味悪い研究手法です。
どんなに長年聖書研究に打ち込むとしても、聖書をバラバラに分解して研究するならその人は聖書を正しく理解することなど不可能でしょう。
例えば、考えてみて下さい。
『美女と野獣』といった2時間程度の映画を1日4分ずつ、1ヶ月かけて鑑賞したいなどと誰が思うでしょうか。そんな鑑賞の仕方で映画の全体像やメッセージを的確に理解できるでしょうか。
いや、無理です。
そんな滅茶苦茶な鑑賞のやり方をしては映画の全体像やメッセージなど理解できるわけがありません。2時間の映画を一気に観てしまうからこそ映画の全体像やメッセージが理解できるのです。
あるいは、次の場合はいかがでしょうか。
2時間の映画を120の断片にバラバラに区切って、その小さな断片を流れに関係なくバラバラに鑑賞するのです。『美女と野獣』をそのように鑑賞したらどうなるでしょう。
断片的かつバラバラに映画の断片を観たとすれば、それは「映画を観た」というよりは「シーンを見た」だけに過ぎません。
最初から最後まで一気に観て初めて「私はあの映画を観た」と言えるのです。
こんなの常識だと思います。
そしてお気付きの通り、エホバの証人たちは上記に述べたことを「聖書」に対して行います。
いえむしろ、彼らは聖書をバラバラにして研究をするのが大好きなのです。
しかしながら、全体像やメッセージを正しく理解したいのであれば適切なスピードが必要であり、これは映画鑑賞も聖書研究も同じです。
悲しいことに多くのエホバの証人たちは聖書の中の書、例えば『創世記』や『マタイ書』などを詩集や俳句集のように扱います。
しかし、創世記やマタイ書は「詩集」や「俳句集」ではありません。
それらは1つの映画であり1つの物語です。
それらにはそれぞれの流れがあり、本来、バラバラにして研究すべきではありません。
バラバラに分断された聖書の起源
ちなみに、多くのエホバの証人たちが聖書をバラバラに研究してしまうのは、彼らがバラバラに分断しやすい聖書を使っているからです。
つまり、彼らは章と節で分割された聖書を使っています。
そして章と節で分割された聖書とは本来の姿の聖書ではなく、これがまた、つまみ食いしやすい聖書なのです。
そもそも聖書に章と節といった数字による区切りが挿入されたのは割と最近です。
それ以前の聖書には当然ながら、章や節といった数字による区切りはありませんでした。
ですから、イエスや弟子たちは数字によって区切られていないモーセ五書を使っていましたし、パウロやテモテといった初期クリスチャンたちも同様でした。
新約聖書に至っては、それらがもともと手紙だったことを考えれば、数字による区切りは明らかに後付けであることは想像にたやすいことでしょう。
では、いつから聖書は章と節によって分割されたのでしょうか。
旧約聖書に関しては、イギリスの聖職者スティーブン・ラングトンが13世紀初頭に分割を行いました。
新約聖書を分割したのは、16世紀半ばのフランスの印刷業者ロベール・エティエンヌです。
もちろん彼らは読みやすさ、そして分厚い聖書の開きやすさといった便宜のために聖書を章と節に分割したのでしょう。
しかし、章と節による分割によって聖書学習者たちが気軽につまみ食いしてしまう弊害、聖書をバラバラに研究してしまう弊害を考えると手放しで喜ぶことはできません。
便利だからといって必ずしもそれが正解とは限らないのです。
このように考えると、
聖書を分断して研究してしまうエホバの証人も、実は単なる歴史の被害者なのかもしれません。
エホバの証人に限らず聖書を分断してしまう傾向は、キリスト教会のあちこちで目撃されている聖書研究のワンシーンだからです。
しかしながら、このような歴史的な慣習に毒されていない人たち、本来の姿のままの聖書を今でも使っている人たちがいます。
それはユダヤ教徒たちです。
実際、ユダヤ教徒たちは現代でも章と節によって分割されていない本来の姿の聖書を中心に置いて聖書を勉強しています。
単なる数字とは言え、もともと聖書になかったものを加えることなど聖書を「王」のごとく崇める彼らの間では決して許されないのです。
このようなわけで、ユダヤ教徒たちは今でも自分たちの中心に本来の姿の聖書を置き、子供たちも数字で分割されていない聖書を使って朗読しております。
この点に関して言えば、私はキリスト教で普及している聖書よりもユダヤ教で普及している聖書の方が本来の姿をとどめていると思います。
ちなみに、古典ユダヤ教について学ぶことは聖書の世界観を押し広げるのに大いに役立ちます。
聖書にとって古典ユダヤ教は実家だからです。
エホバの証人の初代会長は背教者
さて、第3章「エホバの証人の弱点」の最後を飾るおまけとして、この決して小さくはない弱点にも軽く触れておきましょう。
この弱点は現役JWたちにとっては、あまりにも残酷で直視できない事実でしょうけど。
つまり、ものみの塔聖書冊子協会の初代会長、エホバの証人を設立したC・T・ラッセルはキリストの教えに背く背教者です。
統治体と現役のエホバの証人たちは今でも彼を偉大で特別な人物として敬い、折に触れては彼がいかに素晴らしく謙遜な指導者だったかを学びます。
しかし残念ながら、真実は大きく違います。
エホバの証人たちは内輪の情報しか教えられることがないので、次の事実を知りません。
つまり、C・T・ラッセルはせん越にも神とキリストの指示に反して、キリストの再臨の時期を何度も何度も特定しようとしました。
イエスは彼らに言われた、「父がご自分の権限内に置いておられる時また時期について知ることは、あなた方の預かるところではありません」
使徒 1:7; マタ24:36
しかも極めて問題となる点は、そのキリスト再臨時期の特定手法としてピラミッドの寸法計算やオカルト的解釈を利用していた点です。
実際に、彼が書いた文章を見てみましょう。
偉大なピラミッドは、象形文字やスケッチによってではなく、場所、構造、測定によって我々に語っている。
・・・有名なプレアデス星座の中心の星アルキヨン・・・科学が認める限りでは、このアルキヨンが『真夜中のみ座』で、万有引力の法則体系の中心の座を占めており、神は、そこから宇宙を支配しているのである。
プレアデスはピラミッドの緯度のところに配置されており、アルキヨンがまさに正確にその線上にある。それは、素晴らしいことに偉大なピラミッドの建造物の日付とに、そして秋分の真中とに一致している。
聖書研究 (第3巻) 326~328p
プレアデス星座?アルキヨン?ピラミッドの緯度?建造物の日付?秋分の真中?
果たして、こんなオカルト文章を書く人間がクリスチャン、そしてキリストが任命した代表者なのでしょうか?
まさか。むしろ反キリストです。
さらに、ラッセルは聖書に関してこんな発言もしていました。
我々は、人々が聖書それ自体からでは神のご計画を見出すことはできないことを知っている。・・・聖書を1ページも読まなかったとしても『聖書研究』の引用箇所を参照しながら読むなら、その人は2年後には光の中にいるであろう。なぜなら、彼は聖書の光をもつからである。
ものみの塔 1910年9月15日号
聖書だけでは神のご計画を見出すことはできない、と。むしろ自分の著書を読め、と。
これがエホバの証人初代会長C・T・ラッセルの発言なのです。
現役JWの皆様、皆様の組織はオカルト的な背教者が設立した組織です。お気を付け下さい。
それにしても事実は小説より奇なりですね。
そんな反キリスト・ラッセルは1916年に亡くなり、翌年、J・F・ラザフォードが協会の会長に就任しました。
これがものみの塔聖書冊子協会の源流です。
このテーマに関しては有名な聖書研究者、中澤啓介牧師の著書『ものみの塔の源流を訪ねて』がよくまとまっています。
興味がある方はぜひ。
第3章まとめ
第3章「エホバの証人の弱点」はいかがだったでしょうか?
- エホバの証人最大の弱点は「聖書の核心を外しており、かつ幸せである」こと
- エホバの証人が持つ独特な聖書研究の手法がその弱点に拍車をかけてしまうこと
- 極め付けとして、初代会長がオカルト的な背教者であり反キリストであったこと
もう十分すぎるでしょう。
エホバの証人の弱点は以上です。