組織なしで「自分の救い」を達成することは可能か?
そもそも、組織なしで「自分の救い」を達成することは可能なのでしょうか。
ほとんどのエホバの証人たちはこの質問に対して「絶対にムリだ」と答えるでしょう。このように考えるのは以下のような理由があるからだと思います。
- 組織を任命しておられるのは神なので、組織に対する裏切りは神に対する裏切りである
- 悪い世の影響から自分を守るためには組織が供給する霊的な食物が絶対に必要である
私も以前、誰にも増して上記のように考えていたのでエホバの証人たちのこの気持ちはすごく理解できます。なので、このような考え方をあえて批判しようとは思いません。
本当に神が組織を任命し、本当に神が組織に対する忠節を求めておられるのであれば、組織なしに自分の救いを達成することは絶対にムリでしょう。組織から距離を置くことにした私は確実に滅ぼされます。
そして組織が提供する霊的な食物が救いに不可欠なのであれば、やはり組織から離れることは死を意味します。集会や大会に出席し続けなければ、将来に待っているのは滅びです。
では、ここで一旦整理してみましょう。
上記のことを踏まえると、エホバの証人たちにとって「救いの条件」とは主に次の2点が含まれるということになります。
- 組織に忠節を示すことによって神に忠節を示す
- 集会や大会に欠かさず出席して世から自分を守る
この点は、多くのエホバの証人たちの組織への熱心さや、集会や大会に出席することへの熱心さを見れば分かるでしょう。救いにつながっていると信じているからこその熱心さです。
しかしながら、私はここで本当に問いたいのですが、そもそも、聖書にはこういったことが書かれているのでしょうか。聖書にはここまで踏み込んだ内容が実際に記述されているのでしょうか。
神によって任命された新しい組織に信仰を置き、またそれに従いなさい。そうすれば、あなた方は救われるでしょう。
??? ?:?
神によって啓示を受けた新しい地上のイスラエルに忠誠を尽くしなさい。そうすれば、あなたは天に宝を蓄えるでしょう。
??? ?:?
否です。
救いの条件として聖書が教えてきたのはあくまでも以下のような事柄です。出エジプトの時代からキリストの時代まで1500年以上ものあいだ一貫してそうでした。それ以上でも、それ以下でもありません。
あなたの兄弟が貧しくなり、あなたの傍にあって財政的に弱くなる場合、あなたはこれを支えなければならない。
レビ 25:35
立場の低い者に恵みを示している人はエホバに貸しているのであり、その扱いに対して神はこれに報いてくださる。
箴言 19:17
完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう。
マタイ 19:21
自分の持ち物を売って、憐れみの施しをしなさい。自分のために、擦り切れることのない財布、決して尽きることのない宝を天に作りなさい。
ルカ 12:33
あなたがごちそうを設けるときには、貧しい人、体の不自由な人、足なえの人、盲目の人などを招きなさい。そうすればあなたは幸いです。彼らにはあなたに報いるものが何もないからです。あなたは義人の復活の際に報いを受けるのです。
ルカ 14:13,14
イエスは主であるということを公に宣言し、神は彼を死人の中からよみがえらせたと心の中で信仰を働かせるなら、あなたは救われるのです。
ローマ 10:9
わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難の時に世話すること、また自分を世から汚点のない状態を保つことです。
ヤコブ 1:27
以上のように、貧しい人たちへの善行やキリストへの信仰が救いにつながっていることを示す聖書の直接的な記述はいくらでも見つかります。
では、組織に従うことが救いにつながっていることを示す聖書の直接的な記述はどこにあるのでしょうか。あなたはそれをいくつ思い出せますか。
お気付きの通り、出エジプトの時代からキリストの時代までの1500年という聖書の歴史から言っても「組織への忠節が救い」という教えや「集まり合うことが救い」という教えは明らかに異質であり、奇妙な教えです。
出エジプトの時代からキリストの時代まで一貫して神からの是認や救いと結びつけられてきたのはもっぱら「貧しい人たちへの善行」や「弱い人たちへの憐れみ」だからです。
パリサイ人たちがイエスから「まむしらの子孫」と呼ばれたのは、彼らが貧しい人や弱い人たちへの善行を軽視し、人間的な決まりごとに執拗にこだわったからであることを、決して忘れてはいけません。
参考までに、予備校の例え
個人の努力が問われているという点において、救われるかどうかは大学受験に似ています。例えば、次のように考えている受験生のことをどう思うでしょうか。
「私は河合塾の生徒だから絶対に合格だ」
もちろん良い予備校に通うことは大変助けになるでしょうが、だからと言って「河合塾の生徒=合格」というわけではありません。合格基準はあくまでもその人の学力が高いか低いかに依存するからです。
その人がどの予備校に属していたかが考慮されることは一切ありません。このような意味で、大学受験における合格基準は完全に個人主義だと言えるでしょう。
救いに関しても同様です。どんなに組織が偉大であっても、だからと言って「組織の成員=合格」というわけではないはずです。先に確認した通り、合格基準はあくまでもその人の善行や憐れみが多いか少ないかに依存しています。
では、その人がどの組織に属していたかが評価されることは一切ないのでしょうか。少なくとも、この点については聖書は具体的かつ直接的な説明をしていません。
この辺りは組織に属するメリットとデメリットを天秤にかける必要があるでしょう。
さらに言えば、試験範囲を取り違えて指導してしまう予備校のことをどう思うでしょうか。本当は英語が試験範囲なのに、間違えてポルトガル語を熱心に教え込んでしまうような予備校です。
パリサイ人たちはこの点で失敗しました。律法の教師であったパリサイ人たちが民に教えるべきは弱い人たちへの愛や憐れみであったのに、手の洗い方や安息日の守り方という数々の人間のおきてを民に指導しました。
結果、指導を与えたパリサイ人も指導を受けたイスラエル国民も共に失敗し、共に神から退けられたのです。
彼ら(パリサイ人たち)のことはほっておきなさい。彼らは盲目の案内人なのです。それで、盲人が盲人を案内するなら、二人とも穴に落ち込むのです。
マタイ 15:14
この点、組織は大丈夫でしょうか。果たして「救いの試験範囲」を取り違えてはいないでしょうか。
少なくとも私は非常に長いあいだ組織におりましたが、自分の救いを完全にするために持ち物を売って貧しい人たちに与えるようにと組織から励まされたことは一度もありませんでした。
イエスは言われた、「完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう。
マタイ 19:21
少なくとも私は非常に長いあいだ組織におりましたが、イエスと弟子たちが貧しい人たちのために寄付箱を管理していて、たびたび貧しい人たちに寄付をしていたことについて一度も教わりませんでした。
事実、ある者たちは、ユダが金箱を保管していたので、イエスが彼に、「祭りのためにわたしたちが必要とするものを買いなさい」とか、貧しい人たちに何か与えるようにと命じておられるものと思っていた。
ヨハネ 13:29
以上のように、エホバの証人の組織は一般の貧しい人たちへの金銭的な施しについては一度たりとも教えていませんし、具体的な指導を成員に与えているわけでもありません。
それもそうでしょう。天に宝を蓄えるために貧しい人たちに寄付をするようにと成員たちに指導してしまえば、それだけ組織を運営するための寄付は集まらなくなり、これはつまり組織の死を意味するからです。
このように、イエスの教えは本質的に組織を殺します。この点を考えても、お金によって運営される組織の存在自体がイエスの教えからすれば異質であり、奇妙な教えであることが分かると思います。
メリットとデメリット
さて、今まで考えてきた事柄のすべてを踏まえたとしても組織に属することのメリットがあるにはあります。属することのメリットを確認し、さらにデメリットも確認しておきましょう。
メリット:
- 神や聖書を愛する人たちと集まり合える(ヘブライ10:25)
- ひとりと比べると宣教の業に取り組みやすい(マタイ28:20)
- キリストの信者に「コップ1杯の水」を与えられる(マタイ 10:42)
デメリット:
- 神が話していない偽りを話すことにより死罪になる可能性がある(申命記 18:20-22)
- 最後の最後にキリストに退けられ歯ぎしりする可能性がある(マタイ 7:21~23。ルカ 13:28)
たとえエホバの証人という「枠組み」にはめられているとしても、そこに集まっているのは間違いなく神を愛しキリストに信仰を置いている人々です。
パウロが言っているように、神を愛する人たちと集まり合い、聖書を学び合うことは実に心地よいことであり「ますますそう」すべきだと思います。共に宣教の業に取り組めるのも大きなメリットでしょう。
さらに、「わたしの兄弟のうち最も小さい者」にというイエスの教えの通り、会衆内で目立たずにいる研究生たちや兄弟姉妹たち、やもめや独身の姉妹たち、子供たちや若者たちに優しさや気遣いを実践できることも大きなメリットです。
ただしデメリットもあります。特に演壇から話をする兄弟たちや、研究生に聖書を教える姉妹たちはこのデメリットに注意すべきでしょう。なぜなら、それは自分の命に関わることだからです。
つまり、神の名を使って偽りを語ってしまえば、ただそれだけで死罪に問われる可能性があります。私たちは自分の口で発言したことに関しても裁かれることになっているからです。悔い改めて方向性を変える必要はあるでしょう。
さらに、キリストに奉仕していると心底考えていたとしても、最後の最後にキリストから否定されてしまう可能性があることも忘れるべきではないでしょう。
その日には、多くの者がわたしに向かって、「主よ、主よ、わたしたちはあなたの名において預言し、あなたの名において悪霊たちを追い出し、あなたの名において強力な業を数多く成し遂げなかったでしょうか」と言うでしょう。
しかしその時、わたしは彼らにはっきり言います。わたしは決してあなた方を知らない、不法を働く者たちよ、わたしから離れ去れ、と。
マタイ 7:22,23
組織から離れるにせよ、組織を上手に活用するにせよ、自分の救いを達成できるのは「自分」しかいません。
組織との距離感は自分の事情などを踏まえながらゆっくりと慎重に決定していくのが良いと思います。
組織なしのクリスチャン人生
さて、組織なしで生きていくとして、その人のクリスチャン人生とは具体的にどのような感じになるでしょうか。集会はどうなるのでしょうか。宣べ伝える業はどうなるのでしょうか。
貧しい人たちへの善行
組織なしのクリスチャン人生において、まず第一に優先されるのは貧しい人たちや弱い人たちへの善行です。念のために言っておきますが、これは会衆内だけに限定されません。
イエスは言われた「完全でありたいと思うなら、行って、自分の持ち物を売り、貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、天に宝を持つようになるでしょう。
マタイ 19:21
わたしたちの神また父から見て清く、汚れのない崇拝の方式はこうです。すなわち、孤児ややもめをその患難のときに世話すること、また自分を世から汚点のない状態に保つことです。
ヤコブ 1:27
これらの聖句を文字通り実践するためには自分のお金に余裕がないと無理でしょう。無いものを与えることはできません。心の余裕も必要だと思います。
これに、クリスチャンを名乗るにふさわしい外見や生活を維持していくための最低限の経済力も加わります。全財産を売り払ってホームレスになる必要などないことは論じるまでもありません。
つまり、クリスチャンは精力的に働き、貧しい人たちに寄付できるぐらいには一生懸命に働くべきでしょう。必要であれば自分の能力を伸ばしたり資格を取るのも良い考えだと思います。
売ることのできる「財産や能力」が多いに越したことはありません。支えることのできる「孤児ややもめ」が多いに越したことはないからです。
余分にお金があるからといって不必要に大きな家に引っ越したり、不必要に高級な車や時計を購入したりするのはクリスチャンのすることではありません。
「必要」という一線を超えたお金はすべて貧しい人や弱い人たちへの善行や慈善活動に回すのが優秀なクリスチャンのすることです。その分、天に宝を積むことができるからです。
しかしあなたは、憐れみの施しをする際、あなたの右の手がしていることを左の手に知らせてはなりません。あなたの憐れみの施しがひそかになされるためです。そうすれば、ひそかに見ておられるあなたの父が報いてくださるでしょう。
マタイ 6:3,4
このように考えてみますと、天の父は地上にいる子供たちの中でも特に貧しくて辛い思いをしている子供たちのことを気にかけていることが伺い知れます。
自分の子供たちの中でもやはり弱い子供たちを気にかけてしまうのは、神であれ人間であれ「父親」の心情のようです。
私たちは天の父を安心させ、喜ばせるべきではないでしょうか。
キリストを宣べ伝える業
宣べ伝える業に関しては、善行や慈善活動とセットでなされるのが理想的でしょう。実際、イエス・キリストの宣べ伝える業もたいていの場合は善行や慈善活動とセットでなされています。
それからイエスはガリラヤの全土をあまねく巡り、諸会堂で教え、王国の良いたよりを宣べ伝え、民の中のあらゆる疾患とあらゆる病を治された。
すると、彼の評判はシリア中に伝わり、人々は、具合の悪い者すべて、様々な疾患や苦痛に悩む者、悪霊にとりつかれてたり、てんかんであったり、まひしたりしている者を彼のところに連れてきた。それでイエスはその人々を治された。
マタイ 4:23
善行によってイエスの良い評判が広まり、群衆がイエスのもとに集まり、それからここでは山上の垂訓を開始しておられます。
マタイ書を読めばすぐに気付くと思いますが、イエス・キリストの宣教の業は病人たちや弱い人たちへの奇跡(つまり善行)と必ずと言っていいほどセットになっています。確認して下さい。
そもそも、私たちは「世にあって光」とならなければなりません。私たちの存在は神とキリストの栄光に直結しているべきです。
あなた方の光を人々の前に輝かせ、人々があなた方の立派な業を見て、天におられるあなた方の父に栄光を帰するようにしなさい。
マタイ 5:16
では質問ですが、以下のクリスチャンのうちどちらが「より」神に栄光を帰すでしょうか。
- なんの脈絡もなく他人の玄関のドアに立っていきなり「今日は聖書について・・」と語るクリスチャン
- 弱い人たちへの善行に励み知人にことあるごとに「私はクリスチャンだから・・」と語るクリスチャン
論じるまでもないでしょう。
集まり合うこと
パウロはヘブライ人たちの会衆へ次のように書きました。
ある人々が習慣にしているように、集まり合うことをやめたりせず、むしろ互いに励まし合い、その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか。
ヘブライ 10:25
エホバの証人たちは特にこの聖句を重視しています。もちろん、それは正しいことです。「盲人が盲人を案内しなければ」という条件付きではありますが。
さて、神とキリストを愛する人々と集まり合えればそれは本当に理想的なことだと思います。お互いに「盲人」でないとすれば、それは本当に励みになるでしょう。
もちろん、パウロも「それが本当に励みになるから」という理由で集まり合うことを強く勧めていたのでしょうが、同じほど大きな理由として「大規模な背教が迫っていたから」というものがありました。
パウロはテサロニケの会衆に宛てて、キリストの臨在に先立って大規模な背教があることに言及しています。
だれにも、またどんな方法によってもたぶらかされないようにしなさい。なぜなら、まず背教が来て、不法の人つまり滅びの子が表し示されてからでなければ、それは来ないからです。
テサロニケ二 2:1~12
イエス・キリストも、キリストの臨在まで背教の勢力と正しいクリスチャンたちが「一緒に成長する」ということを言っています。
彼は言いました、「いや。雑草を集めるさい、小麦も一緒に根こぎにすることがあってはいけない。収穫するまで両方とも一緒に成長させておきなさい。収穫の季節になったら、わたしは刈り取る者たちに、まず雑草を集め、焼いてしまうためにそれを縛って束にし、それから、小麦をわたしの倉に集めることに掛かりなさい、と言おう」
マタイ 13:24~30
イエス・キリストの発言とパウロの発言を考えると、キリストが臨在するまでの背教の勢力は決して無視できるレベルではないことが分かります。キリスト教の暗黒の歴史を見ても実際にそうです。
さらにイエスの例えに注目してしまえば、その期間においては小麦グループと雑草グループとが「別々に成長する」というよりは、それらが「混ざって成長する」ということになるかと思います。
そうであるなら、「終わりの日」において正しいクリスチャンたちだけが一同に介して集会を開くことなど、そもそも期待できるものではないのかもしれません。
結局、キリストの裁判のときに裁かれるのは個人です。もし仮に誰か、あるいは何かのせいで自分が失敗したとしても、それを言い訳にすることは許されていません。
これはつまり、キリストの裁判のその時に「組織」はことごとく役に立たないことを意味しています。自分の救いは、自分の手で勝ち取るほかないのです。
わたしたちはみな、神の裁きの座の前に立つことになるのです。・・わたしたちは各々、神に対して自分の言い開きをすることになるのです。
ローマ 14:10~12
この記事が、あなたの栄光ある勝利における一助となりますように。